別に、僕は美樹ちゃんと付き合っている訳でもないし、同居だって、好きで始めた訳じゃない。そりゃ、いくらか同じ所に住んでいれば、気心だって知れてくるし、良く二人で色んな所へも出かけるようにもなった。気持ちだって、同居したての頃とはまったく違うようになったし、情だって移って来ないと言ったら嘘になる。そして、お互いの、知らなくてもいい事さえも知る事になっている。
でも、それだけだ。
他になんていう事はない。
なんていう事はない筈だった。
そんな事がいつまでも続くと思っていた。
続けばいいと思っていた。
前にも進まず、後ろにも退かず・・・
わかってた。
ただ、進むのも退くのも、怖がってただけだと。
美樹ちゃんが、もうじきこの家を去る日が近づいて来てると判っていても。

「…さん」
「なに?」
僕は、答える言葉を最小限にして答えた。本来ならば、何も言いたくない。しかし、ひねくれ曲がったとは言え、無視なんていう礼儀外れの事をしたくなかった。だから答えた。
家の短い廊下で美樹ちゃんとすれ違った時の事だった。
「あ・・あの・・・」
「・・・」
僕は、何も答えずに美樹ちゃんの傍らを通り過ぎた。
何か言うなら何か言ってくれ。と思う自分と、何も聞きたくない。と思う自分が僕の中で喧嘩をしていたが、すぐに決着がついた。何も聞きたがらない自分が表に出てくる。聞きたいと思う僕が、聞きたがらない僕を非難しているのが聞こえる。
そんな事しても、なんの解決にもならないと。
そんな事を言われなくても解っていた。このままでは、後悔にしかならない行動だと言う事も。ただ、止められない。暗い自分が、嫌な笑いを浮かべて後悔への道へ連れて行こうとする。僕も、それについて行っていいような気がした。
「ごめん。今ちょっと忙しいんだ」
家の中で、何を忙しい必要があるのか、言った僕でさえわからなかった。
「そう・・・ですか」
美樹ちゃんも、僕が忙しい事をしているような場合じゃないのを知っている筈だった。さっきまでのんびりテーブルで、パンにジャムを付けて食べていたのを見ている。
美樹ちゃんが来たのを見て、立ち上がっていた。そして今だ。
美樹ちゃんは微笑んでいた。
無理矢理微笑みを作っているような・・・そんな表情に見えた。もっとも、表情を浮かべる本当の気持ちは、美樹ちゃんの胸の内にだけある。僕には知った事じゃない。
どことなく寂しそうに見えるのは、僕の思い過ごしかもしれないし、僕の行動なんかどうでも良くて笑っているのかもしれない
本当の笑顔を見せる相手は、僕じゃなくて三条さんなのだろう。
一昨日の事だ。
その日は、朝から久しぶりの喧嘩で幕を開けた。
朝食の準備の事での言い合いだった。僕達は学校での試験も押し迫っていたし、慌しかったのも確かだ。そのせいでイライラしていた事もある。
本当は他愛も無い事だ。普段なら、僕も美樹ちゃんも適当に水に流す事だった。日が悪かったとしか言い様がない。
大喧嘩にならずに済んだのは、朝という迫った時間だったからだ。
もっとも、決着がつかないまま学校に行ったのだから、その日は当然機嫌なんていい訳が無い。笑うなんて気分にもなれない。それでも、帰る頃には、溜飲があらかた下がってるだろう。いつもの事だ。
ある事を見るまではそう思っていた。
僕が図書室に江藤さんに頼まれた資料を取りに行った時の事だ。
聞き覚えのある楽しそうな声がした。すぐに美樹ちゃんの声だとわかった。それだけならまだ良かった。
美樹ちゃんの隣に居たのは、三条さんだった。
ショックだった。美樹ちゃんがその日一日僕と同じ気持ちのまま居る筈が無いなんてのはわかっている。それくらい解っている。解っていてもどうしようも無い事が嫌だった。
そして、僕が何より悔しかったのは、美樹ちゃんが三条さん相手に見せていた笑顔が、朝に喧嘩していながらも、輝いていた事だった。男と話す事を苦手にしていた筈の美樹ちゃんが・・・だ。常に誰にでも明るい笑顔を見せて、男女問わずに親しげに話す子だったなら、話は別だ。
三条さんは、確かに僕とは比べ物にならないくらい、頭脳明晰にして運動神経抜群と来ている。アメリカでプロのバスケットリーグに加わっても、十分にやっていけるだけの素質も才能もあるだろう。どだい、僕がかなう相手とは思えない。そうだと解っていても、悔しさは消えなかった。
それから、
「それじゃ・・・」
違うだろ。そうじゃないだろう。いつもみたいにすればいいじゃないか。いつもみたいに、僕が笑って、美樹ちゃんが笑いかえしてくれる。そうすればいいじゃないか。
心の奥から聞こえてくる声に、僕は耳を塞いだ。
「・・・・・」
「なんか用なの?」
「あ・・・いえ・・・別に」
「あ、そ」
口から出てくる言葉は、僕をますます嫌な奴にしていく。もう自分じゃ止められなかった。
こうなったら、落ちる所まで落ちてやれ。もう二度と美樹ちゃんと話せなくなるか、二度と会えなくなってもいい。そうしても、美樹ちゃんは別に悲しんだりしないだろう。なんの思いも残さずに、三条さんにくっついてアメリカにでもどこでも行けばいいさ。ああ、そうさ。それでいいさ。
対抗するように、こんな声も聞こえる。今の僕にはどうでもいい声だった。
そんな事はないぞ。美樹ちゃんだってきっと・・・
僕は、声に質問した。
きっと・・きっとなんだ? 僕は美樹ちゃんにとっては、ただの同居人だろう? 喧嘩ばっかりする、ただの同居人だ。そんな奴が関わりを断とうとした所で、美樹ちゃんになんの実害があるんだ? 美樹ちゃんにとって不必要な奴が、望んで関わりを断つんだ。美樹ちゃんだって、せいせいするだろうさ。
心の声に言い返せば言い返すほど、僕は泣きたくなった。そう思いたくないからだ。思うだけで、胸が潰れるように痛むからだ。
「・・・・・」
何も言わずに、うつむいている美樹ちゃんを見て、僕は逃げるように自分の部屋へ入っていった。ドアを閉める時、立ったままうつむいている美樹ちゃんを見て、嫌な僕がこう言った。
ざまあみろ。と。
本来なら、そんな自分を引き出す事が出来たら、容赦なく引きずり出して、殴り倒してやりたいほどだ。しかし、今の僕を動かしているのは、間違いなく嫌な僕だった。
不意に、胸が痛んだ。
こんな事をすればする程痛くなるのは、僕だけじゃないか・・・

同居人。
妹みたいな同居人。
それが、いつからだろう。
気になり始めたのは。
僕の心の中にいつも居るようになったのは。
美樹ちゃんは、いつの頃からか、良く笑うようになった。暮らし始めの頃は、笑うどころか、僕を避けてさえ居た物だ。それが今では、僕の冗談に素直に笑い、僕の真剣な話に、真剣に聞き入る。
近くにいてくれるだけで、同じ時間を過ごしているだけで、胸の奥に暖かい羽毛が降り積もっていくような気持ちになる。
気がついたら、僕はいつのまにか、僕は美樹ちゃんを好きになっていた。
きっかけはなんだったか分からない。喧嘩後の仲直りの笑顔だったのかもしれないし、僕が風邪を引いた時に、世話を焼いてくれたからかもしれない。あるいは、何気ない会話の、何気ない部分に共感したからか・・・・とりあえず、こんな他愛も無い物が積もっていった結果には間違い無い。
なんでこんな事になったのか・・・
同居しなければ、美樹ちゃんという子が居る事を一生知らないまま過ごしていたかもしれない。好きになって、こんなに辛い思いをする事もなかった筈だ。それなのに、僕達は出会ってしまった。もうこの気持ちを消す事は出来ない。
だからこそ、悔しくてたまらなかった。辛くてたまらなかった。
三条さんに笑いかけていた美樹ちゃんの笑顔を思い出すたびに。
「・・・・・」
自分の記憶を消す事が出来たら、どれほど楽だろう。どうして人間には望んだ部分の記憶を消す事が出来ないのだろうか。
美樹ちゃんは誰の物でも無い。美樹ちゃん自身が望んだ人に向けて、最高の笑顔を見せるのだろう。少なくとも、それが僕じゃないのかもしれない・・・
三条さんに見せていた笑顔が、最高の笑顔なのか・・・
目をつぶると、瞼の裏の黒いスクリーンに、ハッキリ写りそうな気がして、部屋を明るくしたまま、なかなか寝付けない夜を過ごした。


翌日、僕は意地だけで早起きをした。
寝坊をしていると、必ず美樹ちゃんが起こしに来るからだ。
正直、顔を合わせたくなかった。一晩寝て起きてみると、昨日のもやもやが、嘘のように晴れてはいたが、それでも気を抜くと浮かんでくるのが、美樹ちゃんの笑顔だ。僕に向けてではない笑顔。
これから美樹ちゃんと顔を合わせた時、その笑顔より劣る笑顔を見るのが辛い。いや、見たくない。
それだけの理由で、僕は早起きをした。


幸か不幸か、今日の家事当番は僕だった。
朝食のハムエッグを手早く2人前作った。作らない事も一瞬考えたが、作っておいて、美樹ちゃんが安心した所に、僕が素っ気無い態度を取る。という子どものいじめにも等しい事を、嫌な僕が提案したからだ。
味噌汁に炊き立てのご飯。それにハムエッグとサラダ。
全部をそろえて、僕は先に食べた。いつもなら、僕の向かいの席には、美樹ちゃんが座っている筈だった。遅刻しないで済む日は、ほとんど毎日僕の向かいには美樹ちゃんが居た。
今は、誰も居ない席の前に、ゆるゆると湯気を立てるハムエッグだけが置かれている。胸の中が、皮一枚を残して何も無くなった気がした。
いつもの事が、いつもじゃなくなると、こんな風になるのか・・・
僕がこのままなら、いつもじゃない事がいつもの事になる日は遠い日の事じゃなくなる。
ハムエッグの向こう側に、一番想像したくない未来が重なった。
このまま来ないと、冷めてしまうだろう。
ハムエッグも、僕と美樹ちゃんの間も。
関係ない。
また嫌な自分が、ひねた口調で言った。
不意に、美樹ちゃんの部屋のドアが開いた。
すっかり学校へ行く支度を整えた美樹ちゃんが、テーブルで一人で食べている僕を見て、一瞬目を丸くした。
「・・・おはようございます」
「おはよ」
美樹ちゃんの挨拶に、最低限の語数で、最低限の発音で答えた。美樹ちゃんの方を見ずに。
美樹ちゃんは、ドアの前で、立ち止まりすぎじゃないかと思えるくらい、立ち止まってこっちを見た後に、とことことテーブルの所までやってきた。
もう僕は美樹ちゃんの表情を見てはいなかった。目の前の飯に意識を集中していた。
用意してあった茶碗にご飯をよそう姿や、鍋から味噌汁をよそう姿も、見えているが見えていない。いや、見ようとしてないだけだ。
いつもの光景の筈なのに、どこか別の世界の絵空事のような気さえする。
それほどまでに、遠く感じる。美樹ちゃんの事が。
ついこの間までは、段々僕達の距離が埋まり始めていると思ったのに。
「今日はお豆腐のお味噌汁ですね」
席についた美樹ちゃんが、嬉しそうに言ってきた。
「・・・・」
「やっぱり、炊き立てのご飯とお味噌汁っていいですよね」
「・・・ああ」
いつもと変わらない美樹ちゃんの言葉に、相変わらず、ロボットのような返事の僕。
普段は、僕が言う台詞だった。
味噌汁の味は、どうしても僕のより美樹ちゃんの味加減の方が、僕の好みだ。しかしもしかしたら、もう美樹ちゃんの作る味噌汁は飲めなくなるかもしれない。僕がこのままで居れば、それは確実に現実になる。嫌な現実だ。
「・・・・あ、あの・・・」
「ん?」
「えっと・・・あ、やっぱりいいです」
そう言った美樹ちゃんは、笑おうとしているのか、困っているのか、今の僕にはわからなかった。
どっちにも見えたからだ。
「そ」
僕は事もなげに、食事を続けた。
ご飯をがっついて、一気に平らげてから、食器を重ねて立ち上がった。
「ごちそうさま」
僕が作った物だ。言うのも簡単だった。僕自身に言えばいいのだから。
手早く片づけてから、部屋の前に置いてある鞄を掴んで、玄関へと向かった。
食卓で、美樹ちゃんがどんな表情で居るのか、想像するのが嫌で、早く外へ出たかった。
外の景色を見れば、束の間でも忘れられそうな気がした。

「先輩!」
僕が学食から戻る時に、そういう声が聞こえてきた。
この学校の下級生は、上級生を先輩と呼ぶ。誰限定の呼び名じゃない。しかし、思わず振り返ってしまった。声に聞き覚えがあったからだ。
振り返ると、居たのは林檎ちゃんだった。
気のせいか、目が少し釣り上がっているような気がする。
「ん?」
僕が答えると、林檎ちゃんはツカツカと歩み寄ってきて、ビシっと僕を指差した。
鼻を突つきそうな勢いだ。
「な、なに?」
「なにって、先輩。自分の胸に聞いてくださいっ!」
「・・・なんの事?」
林檎ちゃんの迫力に気圧されて、僕は軽く身体をのけぞらした。
「なんの事? よくそんな事言えますね!」
「だってしょうがないだろう。なんの事かわからないんだから」
「美樹の事です!」
林檎ちゃんの視線が、さらに鋭くなっていく。
「美樹ちゃんがどうかした?」
「どうかしたじゃないですよ! 先輩、美樹になんかしたんですか!」
胸の中を直接蹴飛ばされたようなショックを食らった。
「なんだよ・・・僕はなんにもしてないぞ」
瞬間、僕の中の嫌な自分が裏切った。そしてこう言った。
嘘を付け、おまえはひどい事したんだ。ひどい奴だ・・・と。
「うそ! だったら、どうして美樹が落ち込まなきゃいけないんですか!?」
僕は、少し気がささくれだっていたのかもしれない。関係ない林檎ちゃんにこんな目で見られる筋合いはない筈だ。
「そんなの知らないよ。なんで僕のせいなんだ?」
「決まってるじゃないですか。美樹をあんな風に出来るの、先輩くらいな物でしょ? 聞いてもなんでも無いっていうし・・・普通だったら、だいたいは相談してくるのに」
林檎ちゃんは、僕と美樹ちゃんの同居の事は知らない筈だ。今言ってきているのは、ただの勘繰りに違いない。
「なんでそうなるかな・・・全部が全部僕のせい? 美樹ちゃんが落ち込んだら、みんな僕がいけない? 美樹ちゃんに直接聞いた訳じゃないでしょ?」
「・・・そ、それは・・」
林檎ちゃんは言葉を詰まらせていた。いくら親友だからと言っても、林檎ちゃんは美樹ちゃんの事をなんでも知っている訳じゃない。僕と美樹ちゃんが同居している事も知らない。そんな林檎ちゃんが、美樹ちゃんの不調イコール僕のせいなんて、少し行き過ぎている。だいたい、僕が何しようと、美樹ちゃんには関係無い筈だ。
普段なら笑ってごまかす所だが、今の僕には、ささくれ部分を触れられているような気分にしかならなかった。
「とにかく、僕は知らないよ・・・」
「でも・・・」
「悪い。ちょっと用事あるんだ」
このまま詰め寄られたら、嫌な僕が、関係ない林檎ちゃんさえも傷つけかねない。僕は手を小さくあげて、林檎ちゃんに背を向けた。
関係無い・・・か。
よくよく考えてみれば、美樹ちゃんだって、僕の気持ちとは無関係だ。
なんで自分が素っ気無くされているかなんて、全く知らない筈だ。むしろ、やな気分にさせられて、いい迷惑とさえ思われてるかもしれない。
僕は・・・何をやっているんだろう。


放課後。
授業終了のチャイムを、覚めかけた夢の中で聞いていた。
チャイムの音のせいで、どんな夢かを記憶に刷り込む前に目が覚めてしまった。
「…くん。ちょっと」
誰かが僕の名前をを呼んだ。
寝ぼけた頭で、誰が呼んだのかと、目だけで探していると、もう一度名前を呼ばれた。
今度は、ハッキリと方向がわかった。教室の後ろのドアからだった。
僕を呼んだのは、大森君だった。そして、大森君の前に立って、僕を刺すような目で見ているのは・・・・
「三条さん・・・」
僕は、呼んでくれた大森君を無視して、三条さんと視線を合わせた。


「なんですか、こんな所に連れてきて」
丸井高校の屋上は、まだ冷たい風の通り道だった。
「・・・・・」
「用が無いんなら、僕は帰りますよ」
「待て」
三条さんが、重い声で僕を止めた。
「なんですか」
声の迫力に負けて、思わず身体が止まったなんて悟られたくない。そんな一心で僕も言い返した。
「お前、美樹の事をどう思ってるんだ」
いきなり聞かれた。
僕と美樹ちゃんの事を、唯一知っている人物。それが三条さんだ。そして、僕も三条さんがどういう気持ちで居るかも知っている。
「ど、どうって・・・・」
「嫌いなのか、好きなのかって事だ」
じれた風もなく、かといってのんびりした風でもない口調で言ってきた。例え僕がなんと答えようと、跳ね除けられてしまいそうな力強さを感じる。
「なんでそんな事を三条さんに言わないといけないんですか」
「なんでだと? お前本気で言っているのか」
「本気も何も、僕には・・・」
そう言った瞬間、僕は三条さんに胸座を捕まれていた。早すぎて、何が起こったのか、一瞬わからなかった程だ。
「な・・・」
「いいか、良く聞け。もうすぐ俺は卒業する。そうしたら、真っ先にあいつの所へ行って俺の思っている事を全部話す。そして、あいつを必ずアメリカへ連れていく」
「・・・・・」
「それまで、お前が何しようと、俺には関係ない。美樹が俺を選べば問題は無いからな」
胸座を握った手に力が入ったのがわかった。
「そ、そんなの、三条さんの勝手じゃないですか。僕には関係の無い事だ!」
捕まれっぱなしの悔しさが込み上げてきた。
「僕に構わず、なんだってすりゃいいじゃないですか。なんで僕が美樹ちゃんの事で、こんな事されなきゃいけないんだ」
僕は、三条さんの手首を掴み、力の限り握りしめた。握り潰せる物なら、潰してしまいたい程に。それでも、三条さんは顔色一つ変えない。
「・・・・俺は、さっき美樹に会ってきた。そうしたら、なんて言ってきたと思う。最近ある人に嫌われているんじゃないかって、話もしてくれなくなったって、涙浮かべながら言われたぞ」
三条さんの声が震えていた。
「誰だって聞いたら、何も答えなかった。友達だともなんともだ」
「・・・・・・」
「どういう事かわかるか。誰にも言えない奴だって事だ。あいつにとって、そんな奴はお前しか居ない」
無茶苦茶な。とは思わなかった。正直呆然とさえした。
誰にも言えない奴。それが僕?
美樹ちゃんは、僕との事を気にして、三条さんに話した。
涙を浮かべて?
冗談だろ。
「言え。美樹に何をした!」
「さ、三条さんには関係ない事だ」
僕は、ありったけの力を視線に込めて、三条さんを睨み付けた。
「・・・・・」
しばらく、僕と三条さんはにらみ合いを続けていると、不意に胸座をつかむ手が緩んで、僕は開放された。
「まあいい。言ったように、お前がどうしようと、美樹の事をどう思おうと、俺にとっても関係ない事だ。ただ、これ以上あいつを泣かしてみろ。その時は・・・・」
「・・・・」
襟元をゆるめながら、僕は無言を答えにした。
僕が泣かせたって? 冗談じゃない。冗談じゃ・・・・・
「話はそれだけだ」
「・・・・わかりました」
三条さんに背中を見せて、寒風に追い立てられるように、僕は昇降口へと向かった。
屋上に残った三条さんが、今どんな表情をしているか、想像さえも出来ずに。
もうとっくに気づいていた筈の気持ちを痛感しながら。

どうやって家の前まで歩いてきたのか、今一つ思い出す事が出来ない。
帰る間に、一つの事ばかり考えていたせいだ。
三条さんの言葉が本当なら・・・・
僕との事など、泣くほどの事だろうか。
三条さんの勝手な思い過ごしじゃないだろうか。
それで、気が付いてみれば、玄関の前という訳だ。
ノブに手をかけて当たり前のようにひねった。開いていようと開いてなくとも、先に鍵を差し込むような事はしない。思えば、こんな事も、僕だけの一人暮らしだったら身につかなかった事だ。
ドアはすんなり開いた。
ゆっくりドアを開けて、土間を見た。
確かに、美樹ちゃんの靴が綺麗に並べられて置いてある。泥棒に入られた訳でもなく、先に帰っている事に間違いはなさそうだ。
ゆっくり入って、ゆっくり後ろ手にドアを閉めた。
これから、入ってどうすればいいのだろう。
今このまま部屋に向かっても、夕飯の支度をする時にでも、顔を合わせてしまう。
逃げていても、どうにかなる事じゃなかった。
この状況の一番の解決法を、僕は知っていた。しかも、二つもだ。
一つは、謝る事。しかし、謝るには理由が要る。ただ謝っただけじゃ、美樹ちゃんにはなんで僕が謝ってくるのか、きっと理解出来ないだろう。
そこでもう一つの方法になる。
つまり、僕の気持ちを美樹ちゃんに伝える事だった。
謝る事は、すなわち僕の気持ちを伝える事になる。
簡単な事だ。口から、声を出せば済むのだから。
ただ、これが出来ていれば、苦労なんて端からしたりしない。
僕が気持ちを伝えても、美樹ちゃんの心の中に、僕なんか居ないかもしれない。
いつのまにか、勝手に気心知れ合っただけで、美樹ちゃんからすれば、僕なんてただの同居人だったらどうすれば・・・
勝手に気持ちを高めていたのは、僕だけだったらどうすれば・・・・
暗い気持ちという地獄に降りてきたクモの糸は、屋上での三条さんの言葉だった。
嫌われたと思って泣いていたという言葉だ。
誰に? 僕に?
僕だとしたら・・・・でも、僕に嫌われたと思ったくらいで、泣ける物なのか?
まかり間違って、もし僕のした事で美樹ちゃんが泣いたのなら・・・
だとしたら、もしかして・・・
僕の中に、確かめたいという気持ちが沸いてきた。
抑えようも無い程に。
もし、ここで確かめなければ、美樹ちゃんは三条さんが連れていってしまう。僕の手の届かない所に。そうなるかわからないのに、そうなるとしか思えなかった。
昨日までは、それでもいいと投げ出していた自分は、今はもう居ない。
僕は、息を鋭く吐いてから、部屋に向かった。美樹ちゃんの部屋へ。ここで立ち止まったら、二度とチャンスは無いと言い聞かせて、動こうとしない身体を無理矢理引っ張った。
「お前は美樹の事をどう思っているんだ。嫌いなのか、好きなのか?」
三条さんへの答えは決まっていた。


ノックを五回程しても、中からの返事は無かった。
僕と顔を合わせるのを嫌がって居るからだろうか。
「・・・・」
五分くらい立っていた頃か、ベランダの方から、小さな音・・・いや、声が聞こえてきた。ここに立っていなかったら、絶対に気づかないほどの小さいくしゃみの音だ。
どうりで部屋から返事が無い訳だ。
鞄を部屋の前に置いてから、ベランダへ向かった。
ベランダへと通じる大きな窓越しに、しゃがみこんでいる美樹ちゃんの姿が透けて見えた。まだ制服姿だ。
今から、僕はその隣に行って、話さなければならない事がある。
物凄く勇気の居る事だ。
このまま気を張り詰めすぎれば、いつ倒れてもおかしくない程だ。
大きく深く息を吸って、しばらく胸の中に溜めた後、吹き矢でも吹けそうな勢いで、息を吐いて気合を入れた。
今までの人生の中、こんなに勇気の要る事にぶち当たった事はなかった。


窓を開けて、美樹ちゃんを見た時、美樹ちゃんは驚いた風に目を丸くしてこっちを見てきた。
「…さん・・・・」
「あ、あの・・・美樹ちゃん。ちょっといいかな」
今朝までの口調は、僕からは消えていた。
なぜ、あんなロボットみたいな口調でしゃべっていたのか、不思議にさえ思う。
言ってからも、僕は美樹ちゃんの表情を観察していた。今までどんな表情で居たのか、僕を目の前にして、どんな表情の動きがあるのか・・・
「な、なんですか?」
「いや、あの・・・・さ・・・」
千あった勇気が、言おう言おうと思う事に消費されて、今や一つほどしか残っていない。 でも、それで十分だった。勇気は一つ残ってればなんとかなる。
「もうじき・・・終わりだよね。この生活も」
なかなか核心に近づきそうも無い事を言って、後悔した。
「そうですね・・・」
美樹ちゃんが、僕から顔を背けて、ベランダの格子の向こうに見える町並みに目を移していた。
なかなか気持ちが噛み合わない。
僕の中に、まだ何かぎこちない気持ちが残っているせいだろうか。それとも・・・
「・・・・・・」
ひときわ冷たい風が、美樹ちゃんの髪とリボンを揺らした。僕にとってのきっかけはこんな事でも良かった。
「美樹ちゃん・・・話があるんだ」
「・・・・・」
美樹ちゃんはこっちを向いて来なかった。
「大事な話なんだ。そのままでもいいから、聞いててくれないか」
反応を待たずに、僕は構わず続けた。
今まで、気づいていながら、ずっと心の奥に仕舞っておいた気持ちを、取り出した。
この気持ちのお陰で、僕は僕じゃなくなりそうな時が、何度もあった。それが、今ようやく心の中で形になって、口から出て来ようとしている。
「僕、美樹ちゃん・・・君の事が・・・その・・・・」
残り一つの勇気が、言葉に変わるのに、時間はかからなかった。
「好きだ。僕、美樹ちゃんの事が好きなんだ」
はっきりと言った。腹の底から。まるで、一生分の勇気を使い切ったみたいだ。
時間が止まったような気がした。ただ、何か背負っていたとんでもなく重たい物を、一気に下ろしたような感覚はあった。
長いようで短い一瞬の後、美樹ちゃんが無表情のままこっちを向いた。僕が何を言ったのか、わかってくれていないとさえ思った程だ。
「・・・・え?」
「いきなりこんな事言われて、変に思われるかもしれないけど、僕、美樹ちゃんの事が・・・好きなんだ」
何度言えば満足するのだろう。何度言っても足りない気がした。
また時間が止まった。
僕がこれ以上何かを言うにも、言いたい事は言った。あとは美樹ちゃんの次第だ。
それを待っていいのか。それとも、答えは無いのか・・・・
「冗談・・・・ですよね?」
美樹ちゃんが、ぽつりと言った。ただ、驚いているのは隠せないでいる。目がまんまるだ。
「冗談なんかじゃない。本気だ!」
「でも・・・・」
「信じてくれなくたっていい。でも、僕は本気なんだ。これだけは解って欲しい」
元より、即決即答で答えが返ってくるとは思っていない。ただ、僕は僕の気持ちを伝えたかっただけだ。この後に及んで、僕は美樹ちゃんの返事を待たずに、背中を見せて、ベランダから出て行こうとした。恐かったからだ。今まで、ずっと美樹ちゃんと暮らしてきた時間が嘘になりそうだったからだ。
「待って。待ってください!」
美樹ちゃんが、我に返ったような勢いで、僕を呼び止めた。
話す事は話した。それで僕を呼び止めるのだから、今振り向けば答えが聞ける筈だ。しかし、振り向けなかった。最後の勇気を使った後に残ったのは、臆病な僕だけだ。
「・・・・」
「どうして・・・どうして私なんかを?」
「知らないよ。理由なんかわかるもんか」
弱気を強気で隠した。
「わたしで・・・・いいんですか・・・」
美樹ちゃんの言葉に、僕は、自分でも解らずに振り向いていた。
「わたしなんかで本当にいいんですか? 泣き虫だし、マイペースだし、いつも…さんと喧嘩ばかりで・・・・」
美樹ちゃんは、まるで嫌ってくれと言わんばかりの言葉を並べた。
「そんな事ないよ。それに、そんな事なんて、もう解りすぎるほどわかってる。だてに一年も一緒に住んでない」
「でも、でも・・・」
何か、僕に嫌われる為の理由を探しているように見えた。
「・・・・別に、返事がどうのこうのっていうんじゃないんだ。ただ、僕がこう思ってるって知って欲しかっただけだから・・・」
美樹ちゃんに対して、素っ気なくした事と謝る事を関連付けるのは、もうどうでも良かった。自分の気持ちさえ伝えられれば、それで満足だった。
もう言ってしまった。後は、なるようにしかならないだろう。
「ごめんね。いきなりこんな話で」
僕は笑って見せた。もう遅いかもしれない。でも、今僕に出来る精いっぱいの事だった。
「わたし・・・・・」
どんな結果だとしても、僕にはただ受け取る事しか出来ない。
「・・・・・わたし、どうすればいいんですか? どうしたら・・」
聞きたいのは僕の方だった。しかし、ふと考えると、僕も美樹ちゃんにどうこうして欲しいとか考えた事もなかった。とにかく気持ちを伝えたい事ばかり考えていた。
「出来れば、返事を聞かせて欲しい」
心に余裕が生まれたせいか、僕は美樹ちゃんを試すつもりで言った。
「・・・・・」
沈黙が返ってきた。
長い長い沈黙だった。返答に使うには、多すぎる時間だ。
「・・・やっぱいいや。聞いて貰えただけで・・・」
沈黙の長さに耐え切れずに、僕は思わず苦笑して、頬を掻いた。
返事が無い事が返事か。
そうとしか思えなかった。
僕の一生分の勇気は、ここに砕け散った。
つまり・・・振られたって事だよな。
途端に、美樹ちゃんが、こんなに近くに居ながら、遠く・・・手の届かないずっとずっと永遠に届かない所へ行ってしまったような気がした。
このままここに立ったまま動けそうも無かった。美樹ちゃんの前に居る事が、辛いと思うのに足が動かない。
美樹ちゃんを目の前にしたまま、何も出来ずに居た時、不意に美樹ちゃんが顔をあげて、僕の目をじっと見てきた。
追い討ちをかけられるのか・・・
「わたし・・・…さんといつまでも普通に居られるんじゃないかって思ってたんです。でも、お話してくれなくなった時、辛かったです。わたしを避けてるって思った時、ホントは泣きたかったんです。…さんの前じゃ泣かなかったけど、部屋で・・・」
美樹ちゃんが何を言っているのか、僕には理解出来なかった。返ってくる言葉は、ごめんなさいの一言だと思ったからだ。
「・・・・・?」
「なにか嫌われるような事しちゃったのかな・・って、ずっと考えて・・・布団に入っても眠れないで・・・」
言葉と一緒に出てきたのは、涙だった。目尻にじわじわと溜まっていく涙。
僕にとっては、意外の連続だ。
「美樹・・・ちゃん?」
「ごめんなさい。もう泣かないって、何度も約束した筈なのに、なんで・・・なんで・・」
溢れてくる涙を、何度も何度も両手で拭っているが、次から次へと溢れてくる涙は止める事は出来ないでいる。
「わたし・・・わたしも・・・…さん好きです。大好きです」
信じられない台詞が美樹ちゃんの口から出てきた。
もう、僕はフラれた物だと思っていた。だから、こんな台詞なんか絶対に聞けないと思っていた。
正直、冗談と信じて疑わなかった程だ。
美樹ちゃんが僕の事を・・? 聞き違いか勘違いか、どっちかに違いない。
心の中の僕の頬を、ねじ切れるくらい捻った。痛くはなかった。だとしたら、これは夢に違いない。
「・・・・嘘・・・だろ?」
嘘じゃない事は、美樹ちゃんの涙が語っている。解っているのに、どうしても言葉にしなくちゃ収まらなくなっている。
「なんでこんな時に嘘なんか・・・嘘なんか言える筈ないじゃないですかぁ・・・」
「だって・・・」
涙に揺れた声に、僕はどうしていいかわからなかった。
「…さんは・・・冗談で・・言ったんですかっ・・」
真っ赤に腫らした目で、僕を責めるように見てきた。
「じょ、冗談な訳ないだろう。本気だ」
「だったら・・わたしだって本気・・・です」
美樹ちゃんはそう言ってから、初めて顔を背けた。僕にこれ以上泣き顔を見せたくないのか、それとも、今のこの状況に耐えられなくなったのか・・・
「ホントに・・・・いいの? 僕なんかで」
ふと、三条さんの顔が浮かんだ。自信に満ちた顔だ。僕なんかより、ずっと自信に満ちていて、強い。僕からすれば、僕を選ぶなんて、信じられないと思いさえする。
美樹ちゃんの返事は、肯き一つだった。
ようやく、僕の頭の中で整理がついた。
僕は美樹ちゃんに告白した。
そして、返事を貰った。
涙と一緒に。
お互いの気持ちが同じだった時に、僕はどうしたらいいのだろう。それを望んでいた筈だったのに、いざそうなってみると、何をしていいのかわからない。
さっきの美樹ちゃんじゃないが、僕が聞きたい気持ちだった。
どうすればいいのか。どうしなければならないのか・・・
もう届かないと感じた美樹ちゃんが、今僕の手の届くところに居る。こんな時どうすれば・・
「美樹ちゃん・・・・」
「ごめんなさい。涙、止まらなくて・・・・」
「・・・」
告白して、気持ちが同じだと知って、すぐにしていい行動かどうかは、僕にはわからない。でも、こうしたいと思った事だ。だから実行した。きっと許してくれるだろう。
僕は、美樹ちゃんを抱きしめていた。
包むように・・・なんて、僕にはどうすれば出来るのか解らない。でも、出来るだけ優しく腕を回した。
昨日まで、僕と美樹ちゃんが、何気なく暮らしていた場所で、今美樹ちゃんを抱きしめている。
暮らし始めた頃、こんな風になるなんて、想像さえもしていなかった事だ。
美樹ちゃんは、抵抗もせずに、ただ僕の腕の中に居る。
恐いくらいに華奢で柔らかい身体からは、心地良い温もり。思いっきり抱きしめてしまえば、弾けて消えてしまうんじゃないだろうか。
「ごめん・・」
腕の中の美樹ちゃんは、小さく首を振った。
ふわふわと揺れる髪とリボン。そして、立ち上がる柔らかい匂い。甘い匂いとは、こういう匂いの事を言うのかもしれない。
「ほんとにごめん・・・美樹ちゃんの事が好きだったから、だから僕、嫌な事ばっかり考えて、美樹ちゃんに辛く当たって・・・まるで子供だよ・・・」
「いいです・・・もうそんな事どうだって」
一番近い所から声が聞こえてくる。
これ以上ないくらい近い場所からだ。
「・・・・・」
右手だけを美樹ちゃんの身体から離して、頭にポンと手を乗せた。
ふわっとした髪の感触。今まで綺麗だなと、端から見る事しか出来なかった美樹ちゃんの髪の上に、今、僕の手がある。
美樹ちゃんの頭を、軽く抱き寄せた。
涙ごと抱きしめるつもりで。
どれだけ、こうしてただろう。開けっ放した窓から、冷たい空気がどんどんと流れ込んで来ていた。
でも、寒くは無い。一人じゃないからだ。
「寒くないよね」
「うん」
見上げてくる美樹ちゃんの笑顔だけでも、暖かくなれた。
「一緒だから・・・」
「・・・・そっか」
「ずっと・・・このままずっと一緒に・・・いいですか?」
「いいよ、居よう。ずっと一緒にさ・・・」
美樹ちゃんと目が合った。
涙の跡が残る目だ。
用意してた言葉が、頭の中から綺麗さっぱり消えていた。
自然に動ける事が、不思議でならなかった。こんな事しようなんて、思ってないのに、誰かに後押しされているような感覚だ。
僕は頭を下げると、美樹ちゃんの頭が上がった。爪先立ちになっているのだろう。
こんな近くで見た事が無いくらいに、美樹ちゃんの顔が近づいてきた。そこから先は、表情を見る事が出来なかった。
目をつぶったからだ。
もしかしたら、お互いの気持ちは、お互いの知らないうちに、とっくに高まっていたのかもしれない。だからこんな事だって・・・・
頭の中で考えていた筈の色んな事が、真っ白になって消えて行く。
程なくして、僕の唇に柔らかい感触。


美樹ちゃんの荷物が、あらかた片づけられたこの部屋で、僕達は引越し荷物の入った段ボール箱に、寄りかかりながら座っていた。まだ気持ちを伝え合ってから、普通の生活をしていたならば、家に帰って部屋で一人、告白の余韻を噛み締める所だ。しかし、今ここは僕の家だった。同時に美樹ちゃんの家でもあった。
今、帰るべき場所は、ここだけだ。僕も美樹ちゃんも。
頬を真っ赤にして、うつむいて床を見ている美樹ちゃん。
僕も、そんな美樹ちゃんを見るのが照れくさくて、視線を逸らしていた。
自分の唇を軽く内側にすぼめて、舌先で触れてみた。
微かなしょっぱさ。
涙って・・・本当にしょっぱいんだな。
「またいつか・・・この部屋で二人で暮らしたいよね」
「それも・・・いいかもしれませんね・・・」
美樹ちゃんの目。その日が来る事を、夢見てでも居るような・・・そんな風に見えた。
薄く微笑む唇。
あの唇の柔らかさを、僕の唇は知っている。
思い出せば思い出すほど、心臓はいくらでも高鳴っていけるかもしれない。
「そうだ・・・…さん、初めて会った時の事、覚えてます?」
「え? あ、ああ・・・家に入るなり、悲鳴あげられて・・・驚いたな、あの時は」
まるでつい昨日の事のように、はっきりと思い出せる程だ。
「だって・・・本当にびっくりしたんですよ。痴漢が入ってきたって思って」
「僕って痴漢に見えた?」
「・・・・・」
美樹ちゃんが黙った。黙ったイコールYESなのだろうか。まあ、あの頃の美樹ちゃんにとっては、男なんてどれもこれも同じ風に見えていたのかもしれない。
「ひどいよなぁ・・・」
僕は、その時の美樹ちゃんの表情を思い出しながら、苦笑した。心底脅えきった表情をしていた美樹ちゃんと、今僕の側に居る美樹ちゃん。とても同じ美樹ちゃんとは思えなかったからだ。
「だってしょうがないじゃないですかっ。いきなり男の人が入ってくれば、驚きますよ。それに僕はここに住むんだ・・って」
僕の解釈が不満なのか、そう言ってから口をへの字にした。
「いや、そりゃ解るけどさ」
可笑しくて笑いそうになるのをこらえた。
「だって・・・」
「いいよ。気にしてないから」
「そんなんじゃないです。わたしは・・・その・・」
何かを言いたくて、何も出てこなくて。でも何か言いたくて。そんな一生懸命が伝わってくる。
思えば、こんな所にも惹かれていたのかもしれない。
「でも・・・あの時、出会ってなかったら・・・」
悲鳴で始まった出会いでも、僕にとっては、忘れられない出会いだった。出会ってなかったら・・・なんて、考えもつかない事だ。それでも想像したくなったのは、今を感じたかったからかもしれない。どんな事を想像して怖くなっても、手を伸ばせば、現実の温もりを感じる出来る距離に、美樹ちゃんは居る。
「そうですね・・・あの時、不動産屋が手違いしてなかったら・・・」
僕は、美樹ちゃんの言葉を頭で繰り返す事は出来なかった。膝の上に乗せていた僕の手の甲に柔らかい物を感じた。なによりも心地よかった。
僕は手を返して、握りかえした。
なんとなくムードが高まったような、それでいてどこかぎこちない感じのするこの時に、不意に僕のお腹が不満を漏らした。
腹減ったぞ。そんな事言ってないで、飯を送り込め! と。
「あ・・・・」
ムードの欠片も無い音だった。安心したせいなのかもしれない。
ただ、妙に高まってどうにかなってしまいそうな、ギクシャクした気分が、一瞬にして、日常にまで戻った事が有り難かった。
「ふふっ・・・」
美樹ちゃんが笑った。なんだか、随分長い事見てなかった笑顔のような気がした。 胸の奥に残った黒いカスが、光に照らされて消える影のように、あっという間に消えていくのを感じる。
もう何も要らない。この笑顔があれば。
「・・・・あ、やべ」
声を思わずあげてしまったのは、僕だった。
「え?」
「・・・・ごめん。まだ全然夕飯の準備してない」
僕が家事当番だという事さえ、すっかり忘れていた。
「ええっ!?」
「ごめん。すぐにやるから待ってて」
「今日はわたしも手伝います」
「いいよ。まだ引越しの片づけとか残ってるんだろ?」
「引越しの片づけなんて、いつでも出来ます。でも、二人でこうやって食事の準備したりなんて、もうじき出来なくなるから・・・いいですよね」
最後に疑問符は付かなかった。駄目だって言われてもやりますよと言わんばかりに。
「・・・・わかったよ。じゃ、今日は二人で作ろうか」
僕は押し負けた。というより、本音が出ただけなのかもしれない。
「はい」
返事をした元気な笑顔。
それが一番当たり前だと思える笑顔。
なんで今まで泣かすような事をしていたのか不思議でならなかった。

「そうか・・・」
この間の屋上に居た時より、幾分暖かい風が吹いた時、三条さんがそう言った。
僕の方を見ずに、屋上からの風景に目を向けながらだった。
町の所々に見える緑は、春に起こされた緑だ。
三条さんの目には、そんな風景が見えているだろうか・・・
「三条さん・・・・僕・・・」
別に、悪い事をしたとは思わなかった。だけど、三条さんの気持ちも知っていて僕は美樹ちゃんに気持ちを伝えた。ほんの少しの負い目がある。
言葉に詰まったのは、そのせいだ。
「結局あいつはお前を選んだという事だな・・・・」
消えそうな言葉が、僕の胸を突き刺した。
痛いほどわかる。
悔しさよりも哀しさで壊れそうなのが。
もし僕が三条さんの立場なら、こんな台詞は絶対言えない。
「お前、なんで俺に言った。黙っていてもいい事だったんじゃないか?」
三条さんはこっちを見ながら言ってきた。意外な程穏やかな表情で。
「・・・かもしれないけど、こないだの三条さんが言った事さえ無ければ僕はまだ・・・それに、三条さんの気持ちも知ってた。だから、僕も言うべきだと思ったんです」
「お前、馬鹿な奴だな。そういう律義さは、人を傷付ける場合が多いぞ」
三条さんは苦笑しながら、目を伏せた。本気で僕の事を馬鹿にしている風にも見える。
「わかってます」
「ふっ・・・どうしようもない馬鹿だな」
「・・・・・・」
「だが、俺だって諦めた訳じゃない。お前から奪える可能性がゼロとは思わないからな。俺も後で伝えるつもりだ」
三条さんの目の中の火はまだ消えては居なかった。
「僕は・・・美樹ちゃんを信じてます」
「一端な事を言うじゃないか」
「当然です。僕だって美樹ちゃんの事は好きだから」
「はっきり言いやがる」
三条さんは笑った。唇の端を釣り上げて。
どうしてこうまで笑えるのか、不思議でしょうがなかった。それだけ、自信を持っているという事だろうか。
「・・・それじゃ、僕はこれで」
「そうか」
僕が背中を向けた。歩き出しても三条さんからは声はかけられなかった。
僕も振り返らずに昇降口のドアを開けた。
もし振り返って見たら、三条さんはどんな表情をしているのだろう。
実行せずに、ゆっくり後ろ手にドアを閉じた。


教室の前に戻ってみると、一人の女の子が僕を見つけて、歩み寄ってきた。
「先輩!」
「あ・・・」
「先輩。こないだはごめんなさい」
美樹ちゃんの親友は、そう言うなり、ぺこりと頭を下げた。
「え・・・なに、いきなり?」
「人の間に入るなんて、わたし、無神経でした・・・でも、わかって下さい。
わたしも美樹の事心配だったんで・・・その・・・」
「いいよ、林檎ちゃん。気にしなくても。僕も、ちょっと言い過ぎたかな・・って思ってたから。あやまるんなら僕の方だよ・・・」
あの時、僕は間違った事は言ってないと思っていた筈だった。しかし、今思うと、どうしてあんな事を言ったのか、自分でもわからない。間違った事を言っていなくても、それが正しい事とは限らないとわかっていなかったからなのかもしれない。
「先輩・・・」
「あの時、僕どうかしてたよ。ごめん、ほんとに」
「・・・・良かった」
林檎ちゃんが、そう言って、ニコリと微笑んだ。
「え?」
「・・・・先輩、美樹泣かしたら、わかってますね? 」
林檎ちゃんの笑顔。その意味が閃いたようにわかった。もとより、言われるまでもない。
「・・わかってる」
僕は笑顔で答えた。
「別に、二人の間の事だから、割って入るなんて事はしませんけど、友達の心配くらいはしてもいいですよね」
「ああ、美樹ちゃんの事、よろしく頼むよ。僕だけじゃわからない事もあるかもしれないし」
「駄目ですよ、そんな弱気じゃ。何もかもみんな俺に任せとけ! くらい言って貰わないと」
「そっか・・・そうだよな」
僕は笑いながら答えた。
冗談には笑顔で答えるのが礼儀だ。もちろん、本気の冗談にもだ。
「あーあ、美樹に先越されちゃったなぁ・・・」
僕から視線を逸らした美樹ちゃんが、苦笑しながら呟いた。こんな言葉だけでも、僕と美樹ちゃんの事を、改めて実感させてくれた。
「・・・・」
「それじゃ、先輩。わたし行きますから」
「うん・・それじゃね」
僕は、林檎ちゃんの姿が無くなるまで、去っていく後ろ姿を見ていた。


エピローグ


すっかり片付いた部屋。
もう美樹ちゃんの部屋に残っているのは、柔らかい匂いだけだった。
あと美樹ちゃんの物で残っているのは、美樹ちゃん自身だった。
玄関で扉を背にしている美樹ちゃん。
僕は見送る側だ。
こんな風に立つ日が来る事はわかっていた。それでも信じられなかった。
「わたし、一年間・・・その・・・楽しかったです」
「・・・僕もだよ」
「・・・・」
「・・・・」
何か本当はもっと一杯言いたい事はあった。昨日ずっと遅くまで話した筈なのに。なのに、言葉が出てこなかった。
「ここに来て、…さんに会えて・・・本当に良かったです」
「僕も同じだよ」
「・・・・」
「・・・・」
せめてもう一日あれば、話したい事を夜通し話せるのに。
「わたし、またここに来ていいですか?」
「あ、ああ・・・僕がいるうちは、好きなだけ来てよ」
「はいっ」
美樹ちゃんの笑顔。僕の何かのスイッチを入れるのに十分な物だった。
僕は、次の瞬間、美樹ちゃんを抱きしめていた。
別にこれが今生の別れでもない。それなのに、どこかへ行ってしまいそうだったからだ。
「・・・・・…さん?」
「またいつか。またいつか・・・二人でここに戻って来ようよ。ずっと先の事になるかもしれないけど」
「いいんですか・・・わたしで」
胸の中から小さな声が聞こえてくる。
僕に言ったのか、それとも自分自身に言ったのか・・・
そんな声だった。
他に誰が居るんだよ。
その言葉の代わりに、腕にほんの少しだけ力を込めた。
すると、胸の中で美樹ちゃんが小さく頷いたのがわかった。
美樹ちゃんをゆっくり離すと、微笑んでいた。
「わたし・・・もう行きますね」
「うん・・・」
不意打ちが卑怯と言われても構わない。
僕は、すっと顔を近づけて、そっと、触れる程度に唇を重ねてからすぐに離れた。
美樹ちゃんは、驚きもしていなかった。ただ目を細めていただけだ。
頬が赤い。
多分、僕の頬も同じだろう。
「…さん。ちょっと良いですか?」
「ん?」
俺に少し退くように手を振っているとわかって、一歩横に逸れた。
美樹ちゃんは、すうっと大きく息を吸って、
「ありがとうっ。また・・・帰ってくるからねっ」
今まで喧嘩以外で聞いた事のないような大きな声で、そう言った。
「それじゃ・・・もう行きます」
すっきりした顔だった。
この部屋と約束をしたからか。
「下まで送るよ」
「はい」
最後に出る時に、美樹ちゃんは一回だけ振り返ってから、玄関を出た。
「わたしにドア。締めさせてください」
俺は頷いてドアから離れると、美樹ちゃんがゆっくりとドアを閉めた。

Fin

後書き

(コミケでの本の後書きより引用)

 これで、わたしがコミックマーケットでずっと一緒の本を出すのは最後になります。
そういう意味を込めて、今回はエンディングあたりの話しを書きました。ゲーム本編とは違う形での描写だったんで、非常に駄目な部分が沢山あります。今回上記の通り、どうしてもファイナルとして出したかったので、当日ぎりぎりになるまでやってたせいです。ファイナルがこれで、悔いは正直言って沢山あります。出さないほうが良いかもという選択肢を選びそうになった事もあります。不完全な作品を出す事が何より辛かったからです。でも、もう来年の夏まではきっとテンションを保つことが出来ないと思って、今回どうしても・・・という形で無理矢理出しました。
みなさんの呆れる顔が目に浮かぶようで非常に辛いのですが、わたしなりに判断して決行した事に関しては、良かったと思ってます。
今後は、HPの方面では、まだずっと一緒の物語は続けて行きますが、即売会で本が出るのはこれが最後です。あるいはもしかしたら総集編をオフセットで出して本当の区切りにしようかとも思わなくもないですが、今の気持ちとしては、これでファイナルという形にするつもりでいます。もしなんらかの要望なり反応なりがあった場合は、それはその時に考えたいと思いますが、今回のを読んだら、そう思う人は居なさそうですね。(泣
今回の話しですが、主人公が徹底的にヤな奴になってます。そのわりには理由付けが薄くて、説得力に欠けてしまって、ただ単にひねくれやすいひねくれ者の話しになってしまった感が十分ありますね。筆運びの情けなさに泣けてきます。うう。

 とりあえず、ここまで読んでくださった方々には、感謝以上に申し訳無い気分でいっぱいです。

 それでは、また別の作品かあるいはオリジナルの小説などでお会い出来る日を楽しみにしています。・・・・って、読みたがられなければ話になりませんが。精進します(^^;


作品情報

作者名 じんざ
タイトルふたりぼっち
サブタイトルそして…
タグずっといっしょ, ずっといっしょ/ふたりぼっち, 石塚美樹, 青葉林檎
感想投稿数157
感想投稿最終日時2019年04月09日 21時38分59秒

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  • [★★★★★★] 作者さんは不完全とおっしゃってますが、とても面白かったです。
  • [★★★★★★] 今後もJINZAサンの世界観で表現される作品をたのしみにしております.
  • [★★★★★★] シリーズを通じて非常に面白かったです。これからもずっと一緒のSSを楽しみにしています。