ドアを開けて玄関に入ると、どこのうちにも必ずある物。
靴。下駄箱。サンダル。
そんな当たり前の物より、もっと確実な物。
家の匂いだ。
自分の家の匂いは気づかないが、他人の家に行くと必ず気づく。
それが、その人の匂いであり、その家の匂いでもある。
今まで両親と住んでいた時の家の匂い。今はもう無い。
その代わり、新しい匂いが、今の僕を迎えてくれる。
いや、僕だけじゃない。
もう一人を。
考えてみれば、二人でこの空気を作ったのかもしれない。
一年近くかけて。


 どたばたと慌ただしくした時に舞い上がるのは、一年という時間なのかも
しれない。
「…さん、床の雑きんがけお願いします」
風呂場の方から、美樹ちゃんの声が聞こえてきた。
浴室に居るせいか、エコーかかって聞こえる。
「今やってる」
僕は、床を雑巾で拭きながら答えた。
ダイニングルームの床を隅から隅まで丁寧に吹いて、雑巾を裏返す。
一年という名前のホコリと汚れが、雑巾に吸い取られていた。

 十二月三十日。
今年も残りわずかという時期。
昨日から始まった大掃除も、終盤を迎えていた。
掃除を始めた当初は、軽くやる予定だった。元々そんなに散らかしては居ないし、
普段から美樹ちゃんもこまめに掃除はしていた。それに、大掃除なんて、去年
までなら、せいぜい自分の部屋を適当に整理して、家の掃除を手抜きで手伝うか
逃げるか、とにかくロクな掃除という物をしては居なかった。美樹ちゃんの場合
は、僕よりずっと、家事には精通してはいたが、やはり元は親元に居た女子高生。
やる事は家事だけじゃない年頃だけに、最初の頃は、見てわかる程手抜きも
多かった。もっとも、それは美樹ちゃんだけに限らず、僕にも言える事だが。
しかし、気が付いてみれば、いつの間にか、家事が当たり前になり、自然と
手抜きをせずに自然に出来るようになっていた。
もっとも、僕より美樹ちゃんの方が、圧倒的に家事力を発揮しだしたのは
言うまでもない。さすがに下地が違う。
そんな訳で、大掃除も意外に楽だと思っていた。適当に整頓して、適当に
清掃して、適当に納得して終わり。これで済むと思っていた。しかし、適当に
家具を動かした時に、それは一変した。
普段は目に付かない所にたまったホコリを見て、美樹ちゃんが先にプッツンしたのだ。
「徹底的にやります」
極端な綺麗好きという訳でもない美樹ちゃんの目が、この言葉を言った時は、
本気だった。気のせいか、瞳の奥にメラメラと炎が燃え立っているような気さえした。
一度やると決めたら、とことん突っ走る。美樹ちゃんはそういう子だ。
僕は、その気迫に圧倒されたものの、掃除機で溜まったホコリを一掃した時に、
気分がガラリと変わった。
綿のように積もったホコリが、掃除機に吸われて一気に無くなる様を見て、
これはいい。と思った。僕の心にも、こんな風にホコリが積もっているのかも
しれない。だから、家のホコリを一掃すれば、心もスッキリするんじゃないか。
そんな風に思ったからだ。
それに、二人で作ったホコリや汚れを、二人で一掃する。普通なら疲れる事も、
二人なら大丈夫な気がした。
思えば、一緒に暮らすようになってから、常にこんな事の繰り返しだったかもしれない。
「よし、やろう」
こうして、僕は美樹ちゃんに感化されて、今まで生きて来た中で、一番の大掃除を
する羽目になっていた。


 ある意味で、常軌を逸していたかもしれない。
壁の汚れ。柱の上の梁や窓の桟は言うに及ばず、蛇口やキッチン回り、ドアの
ノブと言った金属部分までも、徹底的に磨き上げられる事になった。
その様は、まるで修繕屋だ。
ふと気が付けば、一年の汚れ・・・いや、この家に付いた汚れという汚れは、
全て落としきってしまったかもしれない。
こんな大掃除、これから先、何度もやる事はないかもしれないと思える程に。
拭き残した部分に最後の雑巾を掛け終わって、バケツに雑巾を放り込んだ時、
今まで機械の様に動いていたツケが回ってきた。
身体の中の空気が全部無くなってしまうんじゃないかと思うくらい、深くて
長いため息を付いて、僕は床に座り込んだ。
ふと見回すと、まるでどこかのショールームにでも居るような錯覚さえ覚えた。
徹底的にやったせいか、見回す場所のどれもが、どのように綺麗になっている
のか、手に取るようにわかる程だ。今、この家で、美樹ちゃんの部屋以外の場所
で、僕の知らない所は無かった。
「お風呂場、終わりました」
美樹ちゃんが、風呂場から出てきた。
ポニーテールにした長い髪を、首の後ろ辺りから、三つ編にしている。
所々濡れている黄色いシャツが、風呂場掃除の様を物語っていた。
「あ、終わったか・・・これで、とりあえず終わり・・・だね」
「そうですね・・・」
美樹ちゃんの声も、どこか気の抜けた風船の様な声だった。
なにしろ、掃除の大まかな総指揮をしたのが美樹ちゃんだ。無理もない。
「綺麗になったのはいいけど・・・疲れた・・」
窓の向こうは、もうすっかり夜の闇が降りていた。
「わたしも・・」
美樹ちゃんが、ぺたんと腰を下ろして、がっくりと肩を下ろした。
「でも・・・なんだか気持ちがいいですね。今なら、どこ行ってもピカピカですよ」
弱い微笑みでも、嬉しさだけは伝わってくる。
「確かにね」
「なんだか、また汚れたりすると思うと、使うのがもったいなくなりますね」
「・・・・・」
同感だった。あまり綺麗にしすぎるというのも、実は問題があるのかもしれない。
「なんにしても、これでいい年が迎えられそうですね」
「これでいい年が来てくれなきゃ嘘だよ」
「来ない筈ないですよ。二人で一生懸命やったんですから」
「・・・・そうだね」
二人で一緒に・・・か。
まさか、こんな風に、新年を迎える事になるとは、一年前は想像だってした事がない。
お互い知らない同士だったのが、嘘の様だ。今は、美樹ちゃんが側に居る事が、
当たり前になっている。いや、居ないのが不自然にさえ思えてくる程だ。
家族に限りなく近いかもしれない。ただし、僕だけの。
「さて・・と。夕飯の準備しなくちゃな・・」
腹は減っていた。ただ、言葉に身体がついてこない。
「…さん、お風呂洗ったついでに、もうお湯張ってありますから、入ったら
どうですか?」
「いいよ、折角洗ったばかりなのに。入るなら、美樹ちゃん先にいいよ」
「わたし、ちょっとする事が残ってるんです」
「え? だって、もう終わったんじゃないの?」
「まだわたしの部屋、片づけがちょっとだけ残ってるんです。終わったら、すぐ
入らせてもらいますから」
「・・・ほんとに?」
正直、風呂には入りたかった。入って、一日の疲れを取りたかった。
「はい、いいですよ。でも、あまり石鹸とか泡を散らさないで下さいね」
「わかってるって」
僕は残った気力を絞って立ち上がった。よっこらしょと声を出す歳でも無い
のに、声が出た。
「じゃ、すぐに出るから」
「いいですよ。ゆっくり入ってて。だって、今日とっても頑張ってくれたんで
すから」
美樹ちゃんがそう言って笑った。この笑顔だけで、今日の疲れが一発で
吹き飛んでしまいそうだ。部屋が綺麗になる事よりも、これが見たくて、今日
一日頑張ったのかもしれない。
ふと、こんな間近に、女の子の笑顔があるのが、信じられなくなった。
「それじゃ、お言葉に甘えさせて貰おうかな」
「あ、タオル持っていかないと無いですよ」
美樹ちゃんが立ち上がって、ううんと一つ伸びをしてから、座り込んで居た
場所のすぐ横にあった棚の扉を開けて、タオルを取り出した。
薄い桜色のタオルだった。
暮らしはじめた当初は、美樹ちゃん専用タオルだった物だ。
暮らしはじめた頃・・・か。
何から何まで、僕と美樹ちゃんの使う物が分別されていた物だ。
コップ、タオル、シャンプー、歯磨き粉、石鹸など、まるで僕を寄せ付けない
とでも言う風に、きっちり分けられている物が多かった。
空気さえも分けられているんじゃないかと思う事さえもあった。
それが、いつからだろう。僕と美樹ちゃんの境界が、前程じゃ無くなったのは。
お互いの共有出来そうな物を分けていられる程、のんびりした日常じゃなかった
せいか、それとも・・・
「はい、どうぞ」
「ありがと」
「それじゃ、わたしもお部屋片づけなくちゃ」
手をポンと打ち鳴らした美樹ちゃんは、気合たっぷりに自分の部屋へと向かっていった。
初めて会った時の事が嘘のように見える。
美樹ちゃんは、強くなった。
確実に。
最近では、涙もほとんど見ない程だ。
僕も、知らないうちに変わっているのだろうか。
「あ、美樹ちゃん」
「はい? なんですか?」
「・・・・いや、やっぱいいや。それより、後で何食べる? リクエストあったら
出来る範囲でやってみるけど」
「…さん、疲れてるみたいですから、何か簡単な物でいいですよ」
「何言ってるの。疲れてるから食うんだよ」
「・・・だったら、わたしもお手伝いします。だからゆっくり作りましょう」
「え、ほんとに?」
「はい。そんなに急いでませんから」
美樹ちゃんは、目を細めて笑ってから、
「もう掃除も終わってるから、時間はたっぷりありますよ」
「・・・そっか。そうだよな」
同じ所に居るんだ。確かに時間はたっぷりある。
何か、土曜日の昼間のような・・そんな気分だった。
「じゃ、頼むよ。いいかな?」
「いいですよ」
「よし、んじゃひとっ風呂浴びてさっぱりしてくるわ」
僕は、タオル片手に、風呂場へ向かおうとしたとき、美樹ちゃんが慌てて、
「あ、あの、着替え持っていってください!」
「あ、そっか。いけね」
脱衣所で着替えないと、タオル一丁で歩き回る事になる。
うっかり忘れていた。
「もう・・・いい加減なんだから・・・」
美樹ちゃんの声を背中で聞いて、僕は着替えを取りに部屋へ戻った。


 風呂から上がってさっぱりした気持ちで、麦茶を飲んでいた時、美樹ちゃんが
タオルを持ってやってきた。
「それじゃ、わたし入ってきますね」
「あ、うん」
僕が答えると、美樹ちゃんがくるりと背中を見せた。
微かに、柔らかくてくすぐったい匂いを感じた。しかし、すぐに感じなくなる。
この家の空気に変わっていったからに違いない。
僕は、とりあえず水を張った鍋を火にかけてから、ベランダに出る為の窓に
近づいて開けた。
冷たい空気が、足元からすうっと部屋に入って来る。
僕は、ベランダへ出て、大きく深く息を吸った。風呂で暖まった身体に、
染み渡るように心地良い。
吸った時と同じくらいの時間をかけて、ゆっくり吐いた。
町の匂いがした。
丸井町の匂いだ。
もう一度ほうっと息を吐くと、白く変わって、夜空に消えた。
寒さから逃げるようにして、僕はベランダから家の中に戻った。
空気まで掃除したかのように思えてた家の中には、しっかりと匂いが残っていた。

Fin

後書き

 二本立て。

 しかも、話的にどーでもいい、ふつーの日常のオチも何もない
話・・・まあ、日常にオチなんてそうそうある訳じゃないからいいか〜

 とか思って・・・ちゃイカンですかね(^^;


 次は夏の話も書きたいですな〜
主人公は、ある意味で美樹ちゃんの保護者みたいな立場をとらんと
いかん事もあるだろうから、そーいうのも書いていけたらいいなって
思ったりします(^^)

 1998 8/7


作品情報

作者名 じんざ
タイトルふたりぼっち
サブタイトル二人でつくった匂い
タグずっといっしょ, ずっといっしょ/ふたりぼっち, 石塚美樹, 青葉林檎
感想投稿数154
感想投稿最終日時2019年04月10日 00時41分38秒

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