「うう……寒い」
思わず漏れた一言……その一言は彼女の心境の約五割を表していた。
水道の蛇口から流れ出る水は、ひどく攻撃的で、容赦なく寝覚めの彼女の肌を突き刺さす。
「うう……眠い」
そして、次に漏れたもう一言は、彼女の心境のもう五割を表している。
寒い。眠い。……これが今の彼女を支配している大部分の感情だった。
朝は辛い……低血圧の彼女の運命と言ってもいい。
それに加えて、もう季節は冬。
食事当番さえなければ、今ごろ夢の中にいるはずだ。
しかし今は台所で、朝食を作っている。
ついさっきまでは、暖かい布団の中に居た……
楽園の中に居たと言っても、今の彼女にとっては大げさな表現ではない。
それなのに……どうしてそこを抜け出して、わざわざこんな所に来たのだろうか?
何故こんなにつらい思いをしているのだろうか?
彼女の脳裏にそんなことが浮かぶ……
そうだ……こんな時にはあいつに押しつければいい。きっと文句も言わずに代ってくれる……
「…」
名前を呼べばすぐに来てくれるだろう……それが二人の関係だから。
「…」
?
……声が出ない。
ぼんやりしてはっきりとしない何かに押えつけられている。
が、不快感はない。
自分を押えつけている物はとても大切な物だから……
それが何なのかはよく分からないけれど。
「あのさ……体調悪いんだったら代るから……休んでいてよ」
「だ、大丈夫だってば!」
言葉とは裏腹に、体はぼろぼろだった。
のろのろと作っているうちに、彼が起き出してしまい、このありさまだ。
まな板の上には、不揃いに切られたハムが4切れほど並んでいて、その他にはまだ何もやっていない。
「さっきからフラフラしているじゃ……」
「大丈夫だって言っているじゃない!」
代って欲しいと強く思うが、それを口にすること、
……そして素直に彼の優しさを受け入れられない自分が腹立たしかった。
「じゃあさ……今日は何となく朝ご飯を作りたい気分なんだけど……いいかな?」
「えっ?」
意外な言葉に少し戸惑った。
心を見透かされたはずなのに……嬉しかった。
いつのまにかさっきまでのいらいらは消え、心が解きほぐされていた。
「……あ」
「?」
「ありがとう」
「じゃあ、出来たら呼ぶから……それまで眠っていてよ」
そう言いながら彼がもらした優しい微笑みを見た時、分かった気がした。
自分を押えつけていた物……とても大切な物が。
……トクンッ……
……トクンッ……
「ねぇ……桜子ぉ……早くお弁当を食べようよ」
「……うん」
親友の呼び掛けに答えはするものの、意識は今朝のことからは離れない。
「桜子……空気食べてる……」
「はぁ? ……何を言っているのよ?」
桜子は訝しそうにしたが、向うは更に訝しげにこちらを見ていた。
不思議に思った桜子は、我にかえり、お弁当箱の中を見て、思わず赤面する。
空気を食べてる……妙な言いまわしだが、これほど彼女を的確に表す言葉はないだろう。
お弁当箱の中は全然減っていなかった。
そう言えば何を食べていたかを覚えていない……
何もつかんでいないはしを、口元に運んで、口を動かしている、奇妙な姿が頭に浮かぶ。
「桜子……変だよ……」
「はは……ごめんね。ちょっと考え事をしていて……」
「何を?」
……まさか『同居している男のことを考えていた』とは言えない。
「な、何でもないわよ」
「何でもなくなんかないよ。絶対、今日の桜子、どうかしてるよ!」
さすがに『空気を食べていた』ところを見られては誤魔化しようがなく、桜子はどう言おうかと少し考えた後、小さい声で……
「……ちょっと、最近ある人に迷惑ばかりかけててね……少し、悪いなって……」
少年の名こそは伏せてはいたけど、その言葉はまぎれもなく真実だった。
いつも自分を労わってくれ、優しくしてくれる……
そんな彼に、自分はいつもひどい事をしている。わがままばかり言っている。
それでも彼はいつも優しかった。
今朝はそれを痛感した……他のことを考えようにも、頭から離れなかった。
「桜子……その人のことが好きなの?」
「っ!!! な、なんであんな奴のことなんか!?」
ちょうど彼のことが思い浮かんだ時だった……それだけに反応も過敏になってしまう。
「あんな奴……ってことはやっぱり男の人なんだ」
「う……。ち、違うわよっ! 絶た……ごほっ……お茶っ!」
「あっ! ちょっと……」
桜子は頭の中真っ白でコップを受け取った。
「はーっ……は―っ……と、とにかく」
「桜子……」
「何よッ!」
「空気……飲んでる」
「えっ!?」
もしかして……桜子は慌ててコップの中身を見た……今度は1滴も入っていない。
「桜子……何も入っていないコップを飲んでた……」
「う……」
「桜子がこんなに取り乱すなんて、絶対に何かあるんだよ。
その人……どんな人なの?」
答えようかどうか迷った。
自分でもおかしいと思う。相談したいとも思う。
……桜子は親友の顔を見る。
今の桜子を面白がったりからかったりしているものではない……
本当に心配してくれている目だ。
「う……ん。
一つ下で……その、取りたててどうって事はないんだけど……
……優しくて……その……」
これではまるで好きな人のことを話しているみたいだ……顔を真っ赤にしながら必死で続ける。
「その……ちょっとさえないんだけど……」
「ふぅん。サッカー部のエースとかじゃないんだ……」
「えっ?」
「だっていつも何々部のキャプテンとかばっかりだったじゃない」
「……」
丸井高校の女王として、いろんな人と付き合ってきた。
別に好きだと言う訳でもないのに、ただそれだけの理由で……
でも、よく覚えていない……ただ、虚しさだけが残っていたような気がする。
それにも懲りず、また……
「女王様って言われてる桜子ってなんだか寂しそうだった……」
「っ!!! ……」
優しく微笑んだ後、桜子に言う。
「だから、私は嬉しいなぁ……桜子に好きな人ができたんだもん」
「ち……」
『違う』と、否定するだけの気力はなかった……
否定するだけの確信もなかった……
「どうしてそう言い切れるの?」
桜子の言葉には否定はもう一切含まれていない……あるのは迷いだけだった。
その様子を見て、もう1度微笑んでこう言った。
「私を誰だと思ってるの?
桜子の中学からの友達なのよ。桜子のことだったらなんだって分かるわよ」
桜子はようやく安堵のこもった微笑を漏らした。
友達の優しさがとても嬉しく、心強かった。
でも、もう一人知っていた……自分を理解してくれる人を、
……優しく包み込んでくれる存在を……
……トクンッ……
……トクンッ……トクンッ……
ついつい意識してしまい、胸がどうしようもなく高鳴って行くのを感じる。
この扉の向うには、彼が居る。
もう日常のことになっていた筈なのに……
大きく息を吸い込み、できるだけ自然に、玄関の扉を開ける。
「ただいま」
「あ、お帰り」
元気のいい返事が返ってくる。
「夕飯、出来てるよ」
漂ってくる夕飯の匂いが彼女の帰宅を歓迎していた。
「ちょっと、今晩は……」
「今朝、調子が悪そうだったから。代りに作っておいたよ」
「ちょっと。あれはただ……」
「余計だったかな?」
余計な事ではない……
家事の苦手な彼女にとって、夕飯を代わってくれるのはとても助かることだ。
「余計じゃないけど……今朝も代ってくれたじゃない……あなたに悪いわ」
「いいよ。僕が勝手にやったことだし。それより早く食べようよ」
「う、うん」
……トクンッ……トクンッ……
今朝とよく似た光景……しかし胸に込み上げてくる感情は鮮明になっていた。
好きなのかもしれないと思った。
……そうであって欲しいとも思った。
「小野寺さん?」
「な……何?」
「空気食べてる」
「う……」
食べ終えた後のしばしの時間。
テレビにはクリスマスに備え、イルミネーションに飾られた町並みが映っていた。
「あなた……今度のクリスマス……いっしょにどう?」
「えっ?」
この時には彼女の中には一つの決意が生まれていた。
彼は驚いて、茶碗を落としそうになる。
「え? 何?」
無理もない……一方的な片思いだと思っていた女性から、突然の誘い。
否が応でも余計な想像をしてしまう。
「クリスマス?」
彼は必死で平静を装った。
もっとも、それは彼女も同じであるが……
「そ、そうよ」
「それって……」
「ち、違うわよっ!
毎年この時期はあちこちから誘われるから、たまにはのんびりしたいと思って特別にあなたを誘ってあげたの。
だから、断じてあなたに気があるとかそう言う訳じゃないわよ! ……ごほっ!」
「あ……」
桜子はお茶を受け取って一気に飲み干した……つもりだった。
「あの……」
「何よ?」
「空気……飲んでる」
「……」
「……」
「こ、これは、ちょっとした冗談よっ!それより、どうなのよ?
まさか私からの誘いを断ったりはしないわよね?」
彼女の精一杯の勇気がそこにあった……
まだ素直に伝える事は出来なくても、紛れもない彼女の気持ちだった。
……後はそれを受け止めるだけでよかった。
僕の中では小野寺さんは恋愛経験未熟で通っているんだけど、どうなんでしょう?
そんでもって次回に(直接)続きます。
何だか自分じゃあ出来がいまいち分からないので、
厳しくない程度に厳しい(?)感想をお願いします(不安)。
| 総合評価 | 投稿数: 27 pts. / 平均: 5.0(良い方だと思う。) |
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| コメント |
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