朝の目覚めが、香ばしいコーヒーの香りと女の子の優しい声なら最高だ。
しかし香ばしい香りと、焦げついている香りとでは大きな違いが有る。
「キャッ!!」
ましてや、そこに女の子の悲鳴というスパイスが加わればもう寝てはいられない。
「どうしたの、麻美?」
まだ眠気の残る頭を叩き起こし、台所の様子を覗いてみる。
「えっ!?、あっ…おっおはようございます」
と、挨拶したのは僕の彼女である桜井麻美。
まあちょっとした家の事情で、この近くにアパートを借りて僕と同じ大学に通っていたのだが……。
「あぁ、おはよう…って、そうじゃ無くて一体どうしたの?」
危うくいつもの朝の挨拶で終わる所だったが、部屋全体に漂う焦げ臭い香りが僕を現実に引き戻してくれた。
「えぇ、はははっ。ちょっと、色々と……」
と、麻美が差し出したフライパンの中には白い煙をあげる目玉焼きであったであろう黒い物体が存在していた。
そして照れ隠しのためか、乾いた笑いを浮かべた一人の女の子がフライパンを手にキッチンに立ち尽くしていた。
彼女と同棲するきっかけと言うのは、3週間ほど前に麻美の携帯にかけた僕の一本の電話からだった。
「…なぁ…麻美、ちょっと来てくれないか……」
当時、僕は40度からの高熱を出し頭はガンガン、喉はズキズキ、一言で表現すれば
「まじで死ぬかも…」と思ったくらいであった。
僕の声の調子から麻美は只事ではないと感じたのであろう。それからほんの20分位で
コンコンという控えめなドアのノックが聞こえてきた。
「こんにちは、先輩。大丈夫ですか?………先輩?」
もちろん僕にその声は聞こえていたんだけれども……あの電話で最後の気力すら使い果たしてしまったのか、ドアの所まで麻美を迎えに行くどころか、麻美に「鍵は開いてるよ」との声を出す事も出来ない有り様だった。
そんな思いが通じた訳でもないだろうが、カチャッと音を立て玄関のドアを開く音が聞こえた。
「先輩? 入りますよ…」
大学からそのまま慌てて飛んできたのだろう。白いブラウスとお気に入りのワンピースといったいつも通りの服装だった。
麻美が来てくれたとの安心感もあったのだろうが、僕の意識はここら辺から怪しくなってきた。
「せっ先輩!?。どうしたんですか!?
…熱は何度あります?薬は飲みました?………」
「いや、薬は無いから……熱は………」
後で麻美に聞いた話しによると、僕はそのうち返事もしないようになり、麻美は慌ててタクシーを呼び僕を引きずるようにして病院へ行ったらしい。
麻美は入院をも考えたらしいのだが、僕が断固として嫌がった為しょうがなく点滴や投薬を受け、またタクシーを呼び僕をアパートへ連れ帰ったと言う事だ。
しかし病院での記憶が全く無い…入院を嫌ったらしいが……やはり、記憶に無い…
まあ、進んで病院に入院したいと思う奴もいないと思うけど。
マンションへ連れ帰った僕をベッドに寝かしつけたが、病人を放って帰る訳にも行かず、ここに居てくれて僕の看病を続けてくれたらしい。
結局僕が目を覚ましたのは次の日のお昼過ぎだった。
病院での点滴や投薬そして何より麻美の献身的な看病が功をそうしてか随分と楽になった。
「麻美、助かったよ…本当にありがとう」
ベッドで横になりながら見上げる麻美の顔は、普段と随分印象が違って見える。
いつもなら年下を感じさせるかわいらしい小さな顔も、こうして下から眺めると全てを包み込む包容力を感じてしまう。
これは視点のせいなのか、それとも病気で気弱になってるからなのか、ひょっとしたら…。
「いーえ、全然構いませんよ。それより先輩、もう楽になりましたか?」
と、額の濡れタオルを交換しに台所へ立っていった。
「あっ!!でもまだ無理しちゃダメですよ。本調子じゃないんだから」
後ろを振り返り僕に釘を刺す麻美は、何だか楽しそうな表情を浮かべていた。
「あっそうだ!!
もう何か食べられます? 軽い食事を作ろうと思うんですけど……
食べたいもの有ります?」
「…いや、まだ食欲がわかないから…」
そんな僕の意見は、つめたく冷やした濡れタオルを額に乗せてくれた麻美の一言によって一蹴された。
「だめですよっ…、こんな時こそしっかり食べて早く治さないと」
本当は食欲など無かったけど、ここは麻美に何かお願いするか…。
「あぁそうだね、何か適当なもので良いよ。でも、冷蔵庫の中に何か入ってたかな?」
麻美は、早速頭の中で様々なメニューを考えているのだろう。
楽しそうな笑みを浮かべながら冷蔵庫を開けた。
しかし、冷蔵庫の中を確認すると麻美の表情が一変した。
「えっ!?…ちょっと先輩!! 本当に何にも入ってないじゃないですか!!」
随分と呆れた様子で、僕に声をかけてきた。
でも男の一人暮しなんてそんな物だよ、麻美…。
俺の友達なんて、冷蔵庫を使わないからってコンセントを抜いてあるんだから…。
「もぉー、買い出しに行って来ます。ちょっと待ってて下さいね」
「あぁ、頼むよ。金はそこのサイドボードの上に財布があるから使ってくれ」
「いいですよ、それくらい。じゃあ行って来ます」
カチャリと静かな音をたててドアが閉まると、部屋には静寂が訪れた。
麻美が居るだけで随分部屋の印象が変わるもんだな。今では静かな部屋の方に違和感を感じてしまう。
と、そんな事を考えている内に猛烈な睡魔が襲ってきた。
麻美が居てくれるという安心感も有ったのだろう、抵抗する間も無く深い眠りへと引きずり込まれて行った。
一体、どれくらい寝ていたのだろう。
部屋の窓から覗く外はすでに暗闇に包まれていた。
昼間に比べても随分体調も良くなってきた様に感じる。
喉や頭の痛みも我慢出来ないほどでもないし、今までどんよりと濁っていた頭もスッキリとしている。
熱も計っていないから正確な所は判らないが37度台に下がっているのではないだろうか。
一通り体の調子を確認してふと部屋を見渡すと、お粥の美味しそうな香りが漂っていた。
しかし、そのお粥を作ってくれたであろう肝心の麻美が見当たらない…。
「帰ったのかなぁ…」
そんなつぶやきが自然と口からこぼれていく。
その時、僕の問いかけに答えた訳では無いだろうが顔のすぐ近くで呻き声が聞こえた。
「うぅ…ん」
ギョッとしてすぐ右をみると、床に座り込み、ベッドにもたれかかる様にして寝ている麻美が居た。
昼間と違い、同じ高さから見る麻美はいつも通り小さくかわいらしい寝顔を見せている。
僕は麻美の方に向き直り、手を伸ばし麻美の頭をゆっくりと撫でる。
「ありがとう…そして、これからもよろしく」
そんな思いを言葉に乗せず、視線と手で麻美に伝えた。
きっと言葉よりも正確に、僕の思いは伝わった筈だろう…
いつまでも撫でていたい艶やかでさらさらの髪だったが、麻美が目を覚ましてしまった。
「んっ……、あっ、ごめんなさい。どうですか体の具合は?」
ちょっとの間、意識が現実と夢の世界の狭間を漂っていたんだろう。
ボーっとしていた目を僕に向けていたが、すぐ現在の状況を思い出したのか、僕の顔色を見ながらそう尋ねてきた。
「あぁ、ありがとう。随分楽になったよ。
これなら明日にはもう大丈夫じゃないかな」
それを聞いた麻美は、まさしく女神の笑顔とも思える表情を見せてくれた。
こりゃ、下手な薬より効きそうだな…。
こんな笑顔を見せられれば、病気で寝ている事が罪な事に思えてくる。でも、この笑顔を見ることが出来るのなら、また病気になるのも悪くないかな……?
「よかったですねっ!!。あっ、お粥作ったんですけど食べます?」
「もちろん!!、腹も減ってきたしね」
この言葉に嘘は無かった。
ちょっと前までは、食欲など全く無かったが体調が良くなってきたせいか、はたまた女神の笑顔を見れたおかげか…。
「じゃあ、お粥を温め直してきますね。ちょっと待ってて下さい」
そう言って立ちあがった麻美の服装がここへ来たときと違うのに気がついた。
上はちょっと大きめのTシャツ、下はホットパンツというラフな服装だ。
こんなラフな服装は初めて見るが、これはこれで結構似合っている。
まあ、あの時のワンピースのままで看病というのも無理があったかもしれないが、一体いつの間に?
そんな疑問を僕の麻美の服装を見る視線で気付いたのだろう。僕が問い掛ける前に自分からこう言ってきた。
「あぁ、洋服ですか?。
あのままの服じゃ、ちょっと看病や世話とか、やりにくいんで買い物をするときについでにアパートに帰って着替えを取って来たんですよ。
ほら、あそこに置いて有ります」
そう言って麻美が指差した所には大きなボストンバックが一つ置かれていた。
しかし、看病の為の着替えを入れるにはいささか大袈裟なような気がする。
まるで一週間くらいの旅行に行けそうな大きさだ…。
「なぁ、着替えは判ったけど、なんであんなに一杯持ってくるんだ?」
それを聞いた麻美が突然耳まで赤くなりながらこう言った。
「えぇっ!?
だって、その…しばらく先輩の世話をしたり食事を作ったりするのに、何時までも同じ格好じゃあ恥ずかしいじゃないですか」
「あぁ、なるほど…。っておい!?しばらくっ?」
完全に声が裏返っていた。
しばらくって…、僕の風邪もそう長引きそうではないしそれにもうそんなに麻美の助けを借りなきゃいけないような状態でもないし…って。
まさか、このままここに居てくれるのか?
「あたしが、ずっとここにいちゃなにか都合が悪いんですか?
それともあたしが近くに居ると迷惑なんですか?」
と、麻美が突然ジト目で僕の方を睨んできた。
こんな目で見られたら良くなるものも良くならないよ麻美…。
「いや、全然っ!!全然そんな事はないけど。
でも麻美、良いの?。それって他人から見たら同棲って思われるよ。
それに両親も心配するんじゃないかな?」
それに対して麻美は怒りと恥ずかしさで真っ赤になりながらもこう言ってきた。
「両親なら、あたしの携帯電話に掛けてくるから問題ありません。
先輩も知ってるでしょう?両親が海外に居るって事は?
それにあたしは、他人の意見なんて聞いていません。先輩の意見が聞きたいんですっ!!」
そう言った麻美の目には、涙すら浮かんでいた。
| 総合評価 | 投稿数: 39 pts. / 平均: 4.8(良い方だと思う。) |
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