芳彦が、織倉家に来てから四日が経とうとしていた。
彼は一足早い夏休みを利用して、この織倉家に泊まりがけで遊びに来ていた。
芳彦は風呂上がりのあとの麦茶を一杯飲もうと、キッチンに向かっていた。
「香奈、何しているんだい?」
芳彦がリビングに足を運んでみると、香奈が笹の前で何かしているようだ。彼の声に香奈はびくっと反応した。なぜか顔を赤らめながら、芳彦に視線を向ける。
彼女の背中にある笹を見て、芳彦はピンときた。
「あ、短冊つけてるんだ?」
今日は7月7日、七夕の日だ。
この日のために芳彦は、真奈美と二人で近くの竹林まで行って取ってきたのだ。
取ってきた笹は今では鮮やかに飾りつけられている。
香奈と真奈美と弥生。そして芳彦の四人で飾りつけたのだ。完成したときの三人の笑顔がとても印象的だった。
だが、あのときにみんなで短冊をつけたはずだ。おや?と首を傾げながら、芳彦は香奈に問いかける。
「まだ、何か願い事があるんだ?」
「えっ……?え、えーっと………その……なんていうか………」
芳彦の問いかけに、香奈は俯きながらごにょごにょと呟いた。
先程と同様、彼女の頬は赤く染まったままだ。
芳彦が側まで歩み寄ると、彼女の手には笹につけようとしていた短冊があった。
「なんて書いたの、願い事?」
芳彦は短冊を指さしながら、書かれている内容を確かめようとする。
短冊を覗き込もうとしている芳彦の目から、香奈はそれを後ろ手に隠した。
「だ、だめです!」
香奈の突然な言葉に芳彦は目を丸くした。香奈も自分の声に驚いたのか、赤い顔をさらに赤くさせながら、しどろもどろに言葉を紡ぎ始める。
「……あっ……ほ、ほら、よく言うじゃないですか。
願い事は他人に見られると叶わないって……………………
だ、だから……その…よ、芳彦さんにも見せられないんです………」
言葉の最後のほうは、小さくてよく聞き取れない。
俯きながら喋っているのでなおさらだった。
「そ、それにっ!た、大した願い事じゃないんですよ! ほ、ほんとに!!
だ、だから、き、気にしないでくださいねっ」
香奈は顔を上げると、片手を胸の前で振りながら一気にまくし立てた。
「………………………」
芳彦は終始無言で香奈のことを見つめていた。
彼女が必死になって隠し通そうとする願い事。
気にしないでと言われても、彼女の態度から気にするなというのが無理な話だ。
芳彦の中でふと、ある考えが浮かび上がる。その考えは自分の唇の端を緩ませ、そして、すぐさま実行に移させた。
「あ!香奈の足元にねずみがっ!!」
「えっ!?きゃあああああああっっ!!」
香奈は芳彦の声を合図に彼に抱きついた。
彼女が抱きついてくる拍子に、芳彦は器用に彼女の手の中から短冊を盗み取った。
「よ、芳彦さん!は、早く!早く、ねずみを追い払ってくださいぃ〜〜!」
香奈は芳彦に抱きつきながら、悲鳴めいた声を上げる。
だが、芳彦は笑いを噛みしめるように体を震わせている。
「な、何が可笑しいんですか!?は、早くねずみを!!」
香奈は顔を上げながら、芳彦に非難の声を投げつける。彼女の大きな瞳には、涙がうっすらと溜っていた。
芳彦はそんな彼女をゆっくりと抱き締める。
「ごめん、ごめん。嘘、嘘だったんだ。ねずみなんて本当はいないんだよ」
香奈の頭のゆっくりと撫でながら芳彦。
「えっ!?」
彼の言葉の意味を理解するまでに数秒かかった。
「ひどい!だましたんですね!?」
香奈は先程よりきつい言葉を芳彦にぶつけた。彼女の剣幕に苦笑しながら芳彦は、盗み取った短冊を彼女に見せる。
「あっ…………」
それを見ると、香奈の頬はみるみるうちに赤く染まっていく。そして、恥ずかしさのあまりからか、顔を俯けた。
「別に隠すほどのことでもないと思うよ………その…願い事……」
芳彦も恥ずかしくなってきたのか、頬をぽりぽりと掻いた。
香奈が隠し通そうとした短冊には、こう書かれていた。
『芳彦さんとずっと一緒にいられますように』
二人の間にほんの数分の沈黙が漂っていたが、それを破ったのは香奈だった。
「……だって……恥ずかしいじゃないですか…………」
まだ恥ずかしいのだろう、彼女は芳彦の胸に顔を埋めていた。
芳彦は胸の中で小さくなっている彼女をとても愛おしく思えた。
芳彦は彼女のことを強く、そして優しく抱き締めた。
「……ん、確かに、ちょっと恥ずかしいかな?」
芳彦は頬を掻きながら呟いた。彼の言葉に香奈の頬はますます赤くなる。
「うーん。それと、この願い事はひょっとすると叶わないと思うよ……?」
芳彦は、さも当り前のようにそう呟いた。
香奈が顔を上げると、彼の顔には笑みが浮かんでいるではないか。彼女の表情は一気に奈落の底に落ちたかのようだった。
香奈には芳彦が笑いながら、そんなことを言うことが信じられなかった。彼も自分と同じ想いを持っていると信じていたからだ。
あの日、夕焼けに染められている帰り道で交わした約束は一体何だったのだろう。
自分一人だけ空回りしていたのか?そう思うと、無性に悲しくなった。途端、香奈の両目からぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
「どうして……どうして、そういうことを言うんですか…………?
私は……っく、私は芳彦さんと…ずっと、ずっと一緒にいたいって
いつも思っているのに……どうして………どうしてぇ……………………」
香奈は堰を切ったかのごとく泣き始めた。これには、芳彦も慌てる。
「違う、違うよ!そういう意味で言ったんじゃないんだよ、香奈」
芳彦はこぼれ落ちる涙を指ですくいながら、香奈をなだめる。
「じゃあ!じゃあ、どういうつもりで言ったんですか……うっく……うあぁぁ……」
香奈は胸の中で、まるで子供のように泣きじゃくっている。
普段の彼女からはとても想像がつかなかった。このように感情に身をまかせて泣いている彼女を見るのは、初めてなのかもしれない。
芳彦は、そんな彼女の嗚咽がおさまるように、ぎゅっと抱き締める。
「香奈、とにかく落ち着いて。ちゃんと理由を話すから!」
芳彦は言いながら、香奈の頭を優しく撫でた。
どれくらいそうしていただろうか。香奈の嗚咽は徐々におさまり、時折泣きしゃくりを上げているが、それも直に収まるだろう。芳彦は彼女の目尻を拭いながら、話しかける。
「どうしたんだい、香奈?こんなふうに取り乱すなんて……」
芳彦はちょっと困った表情をしながら、香奈の顔を覗き込んだ。その彼女の表情は、何かに怯えている子供のように見えた。
「……だって、だって…芳彦さんが……あんなこと…言うから……っく」
香奈は言葉を詰まらせながら、芳彦の顔をまっすぐに見つめる。
「あんなことって……願い事が叶わないって言ったこと……?」
芳彦の言葉に香奈は弱々しく頷いた。
「……よ、芳彦さんも…一緒にいたいって想いを持っていると思ってたんです………
で、でも…よ、芳彦さん……か、叶わないって………言うから……」
言いながら、香奈の目に再び涙が浮かんでくる。
「ああ、もう、泣かないの。だから、そういう意味じゃないってば」
芳彦は苦笑しながら、香奈のことを抱き締める。そして、自分の額と彼女の額を合わせた。
芳彦の、この行動に香奈の顔を一気に赤く染まる。恥ずかしさのあまり視線を逸そうと思ったが、芳彦の真剣な眼差しを見ると背けなくなる。
「香奈は……俺が香奈と一緒にいたくないと思っているように見える?」
芳彦は香奈の目を見つめながら、問いかける。
香奈は何も答えずに、彼の目を見つめ返しているだけだ。
「………ごめん。相手に答えをまかせるのはずるいよな」
芳彦は香奈から離れると、一つ深呼吸をした。そして香奈の顔を見つめる。
「俺は…水沢芳彦は、織倉香奈とずっと一緒にいたいと思っているよっ」
言いながら、芳彦は香奈に満面の笑顔を向けた。彼の顔が少し赤いのはご愛敬だろう。
芳彦の言葉に香奈の表情は一瞬明るくなる。だが、すぐに暗い表情になり、俯いてしまった。そして、彼の顔を上目遣いにちろちろと伺い始める。
「……ほ、本当ですか?」
か細い声で、香奈は芳彦に問いかけてきた。
そんな彼女の態度に苦笑しながら、芳彦は大きく頷いた。
「本当だよ、香奈。俺は、香奈とずっと一緒にいたいよ」
だが香奈は、芳彦の言葉にまだ納得がいかないのか、再度問いかける。
「……本当の本当ですか?」
「本当の本当」
「本当の本当の本当ですか?」
「……ぷっ……あっははははははは」
この執拗な攻めに芳彦はついに吹き出してしまった。
芳彦は笑いながら、顔を覗き込む。
「本当だってば!香奈、俺のこと信じてくれないのかい?」
笑い噛みしめながら芳彦。香奈は、芳彦の言葉にはじかれるように彼の首に飛びついた。
「芳彦さん!大好きっ!!」
「うわっとっ」
飛びついてくる勢いが少し強かったが、それでも芳彦は香奈のことをしっかりと受けとめた。彼女の気持ちのすべてを受けとめるように。
「でも、香奈がこんなに子供っぽいところがあるとは思ってもみなかったよ」
芳彦は悪戯っぽい笑みを浮かべながら、彼女の顔を見つめた。
「…だ、だって……芳彦さん…ここにきてから真奈美とばっかりお話しているし………
そ、それに、さっきだってあんなひどいこと言うし………」
香奈は顔を赤くしながら、芳彦に非難の目を向ける。
思えば、香奈と話をしている時間より真奈美とのほうが長かった。
「ご、ごめん……お、俺だって香奈と話したかったけど、真奈美ちゃんがね……」
芳彦は頬を掻きながら苦笑する。
彼が家にいるときは、真奈美がひとときも離れないのだ。
真奈美といることは嫌というわけではなく、むしろ楽しかった。
彼女の元気な笑顔を見ているのは、気持ちのいいものだった。
だが、それで香奈をないがしろにしてしまっては意味がない。彼女に寂しい思いはさせないと誓った矢先にこの始末だ。
「よ、芳彦さんは……真奈美じゃなくて……わ、私の恋人なんですから……」
香奈は顔から火が吹き出そうなくらい真っ赤にしながら、ごにょごにょと呟いた。
「ごめんな、香奈……」
芳彦は真っ赤になっている香奈を優しく抱き締めながら、申し訳なさそうに言う。
「そ、それと芳彦さん……。もう、あんな意地悪なこと言わないでくださいね…?」
「意地悪って……だから、あれは違うっていったよ!香奈?」
香奈の言葉に、芳彦は慌てて否定する。
「じゃあ、どういうつもりで、あんなことを言ったんです?」
香奈は上目遣いに芳彦を睨んだ。その目の色には明らかに非難の色が混じっている。
これには、芳彦は困ってしまった。
最初は、さりげなく言うつもりだった。
だが今の状況でそれを言うのは、はっきりいって恥ずかしいことこの上ない。
「え、えーっと……つまり、それは………」
芳彦は視線を泳がせながら、言葉を紡いでいく。
だが、香奈にきつく睨まれてしまったので、芳彦は観念してしゃべることにした。
「ほ、ほら…織り姫と彦星は、一年に一回しか会えないんだよ?
きっとやきもちを妬いて、香奈の願い事は叶えてくれないと思うな……?」
言い終わった芳彦は顔を真っ赤に染め、香奈から恥ずかしそうに視線を逸らす。
彼のこの態度に、今度は香奈のほうが吹き出した。
「ぷっ……くすくす…よ、芳彦さん。それって、気障ですよ……くすくす……」
案の定、香奈は可愛らしい声を上げて笑っている。
芳彦は恥ずかしくて穴の中に入りたい気分だった。本当にさりげなく言うはずが、いつの間にかこういう状況になっている。
芳彦は、耳まで赤く染まっていた。
「くすくす……………で、でも……嬉しいです、芳彦さん」
香奈は柔らかな笑みを浮かべると、芳彦のことを見つめた。
その彼女の瞳に映っているものは芳彦一人だけだった。
「……香奈」
芳彦は香奈の瞳に吸い込まれるように、それに釘付けになった
芳彦は彼女の頬に手を添える。反射的に香奈は芳彦の背中に手を回し、彼を抱き寄せる。
「こんなことをしていたら、お空の上の二人に妬かれちゃう…かな……?」
「こんなことって?」
芳彦は意地の悪い笑みを浮かべると、香奈の腰に手を回す。
「…芳彦さんの意地悪………」
香奈は、口をとがらせて不平を言う。
だが、それも一瞬のことで、潤んだ瞳を向けながら笑みを浮かべた。
「香奈……好きだ………」
「私もです……芳彦さん………」
芳彦に引き寄せられながら、香奈はゆっくりと目を閉じた。
「あの……芳彦さん………」
香奈は芳彦の胸にもたれながら呟く。
「……なに?」
「ずっと……ずっと二人一緒にいましょうね?」
芳彦は返事をする代わりに、胸の中にいる香奈を強く強く抱き締めた。
ども。KNPです。
連載3話を書き上げずに、こんなものを書いてます。
なにやっているんでしょうねぇ〜(苦笑)。
今回も香奈ちゃんを泣かせてしまいました。
ダメですね、はっきりいって。どうして、こうなっちゃうんでしょう?
いぢめたい願望でもあるんでしょうか?(ぉ
とりあえず、一応「夕暮れ時に……」の続き物ってことになってます。
でも書き上げてみて、なぜか自信を喪失してしまいました(苦笑)。
こんなんで大丈夫なんだろうか……。(^^;;;
| 総合評価 | 投稿数: 66 pts. / 平均: 4.7(良い方だと思う。) |
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