芳彦が香奈と初めてキスを交わした、あの日から4ヵ月が経っていた。
この頃の大学は、期末試験の真っ最中だ。
だが芳彦の取っている講義の試験は、7月の頭には全て終了しており、彼は他の学生より一足早い夏休みを過ごすことになった。
思いがけないこの休暇に、芳彦はどう過ごそうかと思案する。
途端、頭の中に思い浮かんで来るのは、織倉 香奈と……そして、その家族と1ヵ月過ごした思い出だった。
織倉家で暮らした日々は、今でも鮮明に思い出すことができる。
考えてみると、別れたあの日から香奈に逢っていない。
いや、最近はろくに声も聞いていなかったのではないだろうか。
大学が始まった頃は、香奈に最低、週に一度は電話をかけていたし、また彼女のほうからも芳彦に電話をかけていた。
だが芳彦の新しい生活は、香奈との距離をだんだんと遠ざけていく。
最初のうちは、大学の講義は楽なものであった。だが講義がどんどん進んで行くにつれ、その内容は難しいものになっていく。
もともと彼は余り成績は良いほうではなかったので、講義の内容に遅れないようにするために、必死に勉強をしなければならなかった。
また芳彦は、大学とほぼ同時にアルバイトを始めていた。
大学とバイトとの板挟みの生活に思ったように時間が取れず、疲労が蓄積されていくばかり。家に帰った途端、そのまま寝るというような日々を送るようになっていった。
香奈のほうもそんな芳彦のことを思ってか、自然と電話を控えるようになっていった。
そんな折りの夏休みである。芳彦の心の中は香奈に会いたい、その思いだけが膨れ上がっていく。
芳彦はあることを決意すると、電話を取り、短縮ボタンの一つを押す。
プルルルルル………プルルルルル……………
ガチャ。
「はい。織倉です」
「あっ、もしもし……水沢…芳彦ですが……………」
空が夕陽で赤く染まる頃、芳彦と香奈は肩を並べて歩いていた。
先程まで……以前、二人で訪れた……公園で楽しい一時を過ごしていたのだ。
芳彦の隣を歩いている香奈は、とても嬉しそうな表情をしている。
公園での出来事を思い出しているのか、時折くすっと笑う。
「ふふっ。今日は楽しかったですね、芳彦さんっ」
言いながら、香奈は芳彦に満面の笑顔を向ける。
その笑顔は、雲一つない青空のように澄み切っていた。
「ああ、そうだね。
久しぶりに香奈ちゃんにも会えたし、それに手作り弁当も食べられたし、言うことなしだねっ!」
芳彦も嬉しいのだろう、笑みが自然とこぼれていた。
「くすっ……あのときの芳彦さんったら、私が『お弁当は逃げたりしませんよ』っていっているのに慌てて食べるものだから、おにぎりを喉に詰まらせちゃって……ぷっ………」
そのときのことを思い出したのだろう、香奈はくすくすと笑い始める。
「そ、そこで、笑うかなぁ〜?
だってさ、ほらっ……すっごく美味しいから、ついね……あは、あははは………」
芳彦は笑われたことに眉をひそめる。だが、みっともない姿を見せたのも事実だ。
その事が恥ずかしくなってきたのか、芳彦は香奈から視線を外してぽりぽりと頬を掻いた。
「くすくす……あっ……私、笑いすぎですよね。ごめんなさい、芳彦さんっ」
といって、香奈はペロっと舌を出す。彼女の、その可愛らしい仕草に芳彦の胸は高鳴っていく。隣を歩いている香奈に聞こえるのでは?と思ったぐらいだ。
芳彦は高鳴る胸を抑えつつ、香奈に話しかける。
「あっ……い、いや、別に気にしてないよ。でも、本当に美味しかったよ、お弁当」
「そ、そうですかっ? よかった…芳彦さんに気に入ってもらえて………
一生懸命作った甲斐がありました……うふふ」
香奈は自分の作った弁当が誉められて嬉しいのか、口元に手を当て微笑んでいる。
あれとあれが良かったのかな?と今朝弁当を作るときに試してみた方法を思い出しているのだろう、顎に人差し指を当て、楽しそうに思案している。
今日の香奈は、本当に楽しそうに笑う。
彼女が見せている笑顔は、年相応の女の子が見せる、眩しく、そして可愛らしいものだった。以前の彼女が見せる笑顔は、どことなく無理をしている、作っている、そんな感じを受けた。
だが今のそれは、そんなことを微塵にも感じさせない。
心の底から笑っている、そんな笑顔だ。
「ど、どうしました、芳彦さん?わ、私の顔、じっと見つめて……………
な、何かついてますか……?」
芳彦は香奈の顔をじっと見つめていたのか、彼女は恥ずかしそうに視線を逸らす。
夕焼けだけのせいではないだろう、彼女の頬はうっすらと赤く染まっていた。
「えっ!?い、いや…あの、その……………」
突然の指摘に芳彦は慌てる。いつの間にか香奈のことを見つめてしまっていたようだ。
芳彦は恥ずかしさの余り、顔から火が出そうなくらい真っ赤に染まった。
一方、香奈のほうも赤いままだ。
しばらくの間、二人は無言で歩き続ける。
時折、お互いの顔をちらりと盗み見をするが、視線がぶつかる度に、それを逸らしていた。
この気恥ずかしい状態を、最初にこの沈黙を破ったのは芳彦だった。
「そ、そういやさ。真奈美ちゃんや弥生さんに会うのも、ひ、久しぶりだよなぁ〜」
まだ少し赤らめた表情で香奈に話しかける。できるだけ平静に話しかけたつもりだったが、少々声がうわずってしまったようだ。
香奈はこの言葉を聞いて、少しがっかりした。なぜなら、芳彦の口から出た言葉が期待したものとは違っていたからだ。
「そ、そうですね…。お母さん達も今日のこと楽しみにしてましたよ。
特に真奈美なんか『お兄ちゃんに会えるぅーっ!』って大喜びしてましたから」
香奈はそのことを思い出しながら、芳彦に笑って話しかける。だが、その笑みは先程とはどこか違ったように見えた。
「そっかぁ〜。真奈美ちゃん、そんなに俺に会うのを楽しみにしてたのかぁ」
しかし芳彦はそんな香奈の変化に気づかなかったのか、笑みを浮かべながら真奈美の話題に花を咲かせ始める。
「そういえば、初めて真奈美ちゃんにお兄ちゃんって呼ばれたときはさすがに恥ずかしかったよなぁ〜」
ある日、学校へ行く別れ道で、真奈美はお兄ちゃんと呼んでいいですか? と聞いてきたのだ。
あのときのことを思い出すと、今でも恥ずかしかった。
「でも真奈美ちゃん、いいよっていったときはすごく喜んでいたからなぁ〜」
芳彦はそのことを嬉々として語る。だが反面、香奈のほうはだんだんと表情が暗いものへと変化していった。
さすがに、その香奈の変化に気がついた芳彦が心配そうな表情で問いかけてくる。
「ど、どうしたの、香奈ちゃん!? 気分でも悪くなったのかい?」
「え……だ、大丈夫ですよっ。な、なんでもありません」
芳彦の言葉を否定するかのように手を激しく振りながら、香奈は芳彦に微笑みかける。
だが今度はその笑顔の違いに気づいたようで、芳彦は立ち止まって、もう一度香奈に問いかける。
「……本当にどうしたんだい……俺…何か悪いこといっちゃたかな………」
芳彦は気まずそうで、それでいて彼女のことを本気で心配した表情を向ける。
「ち、違いますっ!」
香奈は大きな声で芳彦の言葉を否定する。芳彦は彼女の声に身体を震わした。
「……あっ、ご、ごめんなさい……急に大きな声を出しちゃって………」
「いや……」
香奈は恥ずかしそうに俯く。芳彦も何となく気まずくなったのか、香奈から視線を逸らす。
二人の間に再び沈黙が襲う。
先程は、微笑ましい雰囲気を持っていたが、今はどこか重苦しいものを漂わせていた。
今度は香奈ほうから口を開く。
「……芳彦さん、私ね………私…真奈美のこと、羨ましかったんです」
香奈は顔を俯けながら、どこか恥ずかしそうに言葉を紡ぐ。
彼女の突然の告白に芳彦は目を丸くする。
「えっ……? どうしてだい?」
芳彦は香奈がなぜ真奈美のことを羨ましがるのか、考えてはみるが、その理由がわからない。だから彼は、その素朴な疑問を香奈にぶつけてみる。
「芳彦さんは覚えていないかもしれないけど、真奈美が初めて芳彦さんのことをお兄ちゃんって呼んだ日……
あのとき、私は『男の兄弟なんていらない』って、そういいましたよね?」
香奈はそのときのことを思い浮かべているのだろう、彼女はどこか遠くを見ているような、そんな目をしている。
芳彦はそんな彼女の横顔を見ながら、記憶の糸を辿っていた。
そう……あれは…確か織倉家の家族みんなと夕食を取ったときのことだった。
香奈は芳彦の表情を伺ってから、言葉を続ける。
「でも……本当は……私も…真奈美みたいにあなたのことを、お兄ちゃんって呼んでみたかったんです………」
香奈は恥ずかしいのか、頬を赤く染め、それでも芳彦のことを真っ直ぐに見つめた。
芳彦は彼女の視線が恥ずかしくなったのか、顔を少し俯け、ぽりぽりと頬を掻いた。
「真奈美が芳彦さんのことをお兄ちゃんって呼ぶ度に私………
少し妬いていたんですよ……………」
一瞬、香奈の表情に影が差す。笑みを浮かべてはいるが、どこか憂いたものがあった。
芳彦はそんな笑みを浮かべている香奈に近づき、そっと彼女を抱きしめる。
「……えっ……芳彦さん………?」
香奈は、この芳彦の突然な行動に驚いた。彼女の顔はみるみるうちに赤く染まっていく。うなじまで赤くなってしまったのではないだろうか。
恥ずかしくて、穴があったら入りたい気分なのに、彼の腕から伝わってくる鼓動、そして温かさを、このままずっと感じていたいとも思った。
「香奈ちゃん……真奈美ちゃんのお兄ちゃんってことは、俺は香奈ちゃんのお兄ちゃんってことにもならないかな………?」
「えっ…………」
いいながら、芳彦は自分の腕の中にいる香奈のことを優しく見つめる。
香奈はそんな彼の視線から目が離せなくなる。
「ほら、前にもいったじゃない? 呼びたければ、いつでも呼んでいいって?
だから香奈ちゃんも遠慮することなんてないんだよ……」
芳彦は香奈を安心させるかのように微笑む。
その笑みは香奈の頬を、よりいっそう熱くした。
「………………はい」
香奈は芳彦の胸にもたれかかる。彼女の髪からはいい香りがした。
シャンプーとリンスの香りなのだろうか、それとも香奈自身のものなのだろうか。
それは芳彦にはわからない。だが、どこか安心できる香りでもあった。
芳彦は香奈の頭を優しく撫でながら話しかける。
「俺にとって、香奈ちゃんも妹みたいなもんだからさっ」
そのとき、芳彦が何気なく吐いた言葉が香奈の胸に突き刺さった。その言葉は、彼女の心の奥深くに入り込んでいく。
香奈は顔を俯け、スカートを握り締めながら小刻みに身体を震わした。
「……………………………妹ですか……?」
「え?」
香奈は下を向いたまま呟く。
だが、その声は芳彦の耳には入らなかったのか、彼女のほうに視線を落とす。
「………私は……私は…………妹だけじゃ嫌ですっ!!
私は芳彦さんのこと………芳彦さんのことが………っく……ぐすっ」
香奈は顔を振り上げざまに芳彦に言い放つ。芳彦はこのとき初めて気がついた。
彼女が目から大粒の涙をこぼしていることを。
「私……寂しかったっ!!ずっと会いたいと思ってた!
でも……!でも…芳彦さんに迷惑かけたくなかったから………
嫌われたくなかったから………………」
香奈は今まで我慢してきた想いを、全て吐き出すかのように泣いた。
芳彦は泣いている彼女の姿を見て、彼女が今までどんな思いでいたか、初めて知った。
別れたあの日から、彼女は芳彦のことをずっと想っていたのだ。だが、そんな彼女の想いに応えてくれる芳彦は側にいなかった。
会えない日々が続き、ましてや声も聞けない。沸き上がってくる寂しさと不安に悩まされ、一人泣いていた夜もあったのではないだろうか?
彼女に優しくしてあげるはずじゃなかったのか?守ってあげるはずじゃなかったのか?
香奈を不安にさせ、そして悲しませた自分に対して、芳彦は慚愧の念に駆られた。
彼女は、今も自分の腕の中で泣いている。
考えなく言った言葉が彼女を深く傷付けたのだ。
「ごめんっ! 香奈!!」
言うやいなや、芳彦は香奈を強く抱きしめた。
「俺っ………俺、自分のことしか考えてなかった!
香奈がこんなふうに悲しんでいたなんて知らなかったっ!! ごめん……ごめんよ……………」
芳彦は香奈を抱きしめながら、彼女に謝った。許してもらえるかどうかわからない。
だけど、芳彦はとにかく謝りたかった。
都合のいい考えだと思われても、彼女にただ謝りたかった。
「でも俺、香奈のこと好きだから。本当に好きだからっ!!」
その言葉に香奈は俯けていた顔を上げる。両目からは、まだ涙がこぼれていた。
芳彦は彼女の頬を伝っている涙を指ですくい上げる。
「……………芳彦さん」
香奈は芳彦の瞳を見つめる。そこに映っているものは自分の姿だけだった。
「……寂しい思いをさせて、ごめん…………
でも、もう君に二度とそんな思いをさせやしない。約束する……………」
芳彦は香奈の腰に手を当て、彼女を優しく引き寄せる。
「……………………………はい」
香奈は引き寄せられながら、そっと瞼を閉じた。
夕焼けに照らされた二人の影は今一つになる。それは、まるで二人の気持ちが一つになったことを表しているかのようだった。
どれほどの時が経ったのだろう、永遠とも思える時の中で、お互いの気持ちを確かめ合った二人は、ゆっくりと離れる。
芳彦と香奈は互いを見つめて合っている。香奈は芳彦の胸にもたれると、こう漏らす。
「……芳彦さん………私のことを初めて香奈って呼んでくれましたね……………」
香奈の言葉に、芳彦ははっとする。
「ご、ごめん………つい夢中で…………………」
芳彦は申し訳なさそうに呟く。小さくなっている芳彦に、香奈はくすっと笑みを漏らす。
「いえ……………………今度から、そう呼んでくださいね。…………
そう呼ばれたほうが、私は嬉しいです」
香奈は芳彦に満面の笑みを浮かべる。その表情はは好きな人にしか見せない、そういう笑顔だった。
芳彦の顔は、気恥ずかしさのあまり赤く染まるが、それでも香奈の顔を見つめた。
だが、それもほんの束の間。芳彦は何かを思い出したかのように声を上げる。
「いっけねっ! 弥生さんや真奈美ちゃんが待っているんだった」
時計を見ると、約束の時間まであと僅かしかない。香奈もそのことを思い出したようだ。
「お母さん達、きっと首を長くして待っているでしょうね」
香奈な微笑みながら、芳彦に話しかける。芳彦の顔はますます赤くなった。
それでも、彼女の顔を真っ直ぐ見つめた。
「俺達の………家族のところに行こう……………香奈」
香奈に手を差し伸べながら、恥ずかしそうに芳彦。
「はい……………お兄ちゃん」
いいながら、香奈は芳彦の手を握る。
夕焼けに照らされながら、家族の元へと戻る二人。
繋ぎ合った手は、二人の絆の証であった。
「芳彦さん……………」
「……………ん?」
「ずっと……ずっと一緒にいてくださいね…………………………………」
香奈の言葉を聞きながら、芳彦は彼女と一緒にいられるように、そして彼女を守っていけるように、心の中で誓った。
はじめまして、KNPです。
今回、香奈SSを書かせてもらいました。
「妹」を強調することを念頭に書いていたつもりなんですが、あまり出ていないですよねぇ〜(苦笑)。
それに、ちと強引なところがあって申し訳ないと思っています。
この話を思いついたのは、サウンドトラックに収録されているモノローグを聞いたときでした。
これをベースにして、この作品を書きました。
拙い部分があるかとは思いますが、少しではありますが甘さと、せつなさを感じ取ってくれたら嬉しいですね。
また、このような機会があれば、挑戦したいと思います。
まだまだ勉強不足ではありますが、これからもがんばっていこうと思います。
| 総合評価 | 投稿数: 74 pts. / 平均: 4.8(良い方だと思う。) |
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