かすみにはいくつかの日課があった。
毎朝学校へ行く時に、ぬいぐるみに、行ってきますの挨拶をする事。
帰ってくれば、ただいまも欠かさない。寝る前の読書も同様だ。
三度のご飯や食器洗い、風呂が日課に入るとなると、それも入れる事になる。
しかし、大概はもうずっと続けていた事であって、今に始まった事ではなかった。かすみ自身もそれを日課と思う事さえない。しかし、ある時期から、彼女に日課という事が出来た。
丁度、彼女の幼馴染が、彼女の側から居なくなった時からだろうか。
「そんなの電話で済ませればいいじゃんか」
学校帰り、高校からずっと伸びる坂の途中で、葵の言葉が白く変わって空に帰っていった。
葵にしてみれば、のろのろ運転を見ているような有様がどうにも歯がゆいのだ。
「うん・・・でも、電話は月一回って決まってるから」
「ふうん。なんで?」
「だって、遠いところだし・・・それに、月一回、目一杯話すのっていいんだよ」
にこやかに笑うかすみを見て、葵はため息を付いた。
「なにやってんだあいつは・・・」
「でもね。手紙のやりとりは良くしてるんだよ」
「いや・・・そういうこっちゃなくてね」
「ん?」
葵は、軽くこめかみを抑えた。
葵の問題としているのはそういう事ではなかった。およそ遠距離恋愛となれば、相手に対する信頼感よりも、不安感の方があがるんじゃないかと思ったのだ。
葵の知っている物語の中の遠距離恋愛話では、必ずと言っていいほど、そういうのに揺れる様が書かれている。
物語だとわかっていても、離れれば気持ちも離れがちになるのは、容易に想像出来る事である。
この二人は違うのだろうか。
そう思うのも無理のない事であった。
「かすみもかすみだよ。心配じゃないのか?」
「ん?なにが?」
葵は、自分が何か場違いな事を言っているのかと確認さえしてしまう。
「だからさ・・・その・・・あいつがさ、信じられなくなったりする時とかあるんじゃないかって事だよ」
「あ・・・うん。その事ね」
ようやく通じた事よりも、かすみが目を少しだけ伏せた事に、葵は驚く。
「・・・・・」
「・・・・・」
二人はしばらく無言だった。あまりにもかすみに通じない事で、つい言わなくて良いことも言ってしまったのだろうか。
葵は、気まずさに思わず頭を掻いた。
「心配じゃないって言ったら嘘になるかな・・・」
「・・・・」
「でもね。多分大丈夫・・・」
「お、なんだい。余裕って奴?」
葵は、冷やかしついでに、場の雰囲気を立て直しを計る。
「にくいよ。このこの」
ひじでかすみをこづくと、かすみは苦笑して眉尻を下げた。
「で、その自信はどこから来るんだ?」
「うん・・・うまく言えないんだけど、いつも近くに居てくれるみたいに感じるの」
「へえ・・・」
「電話で話してても、あ、ちょっと待って、今からそっちに行くからって、前みたいに思っちゃう時もあるの」
「たいしたもんだよ。あたしがそうだったら、もう心配でたまんなくなっちゃうよ」
「ううん。葵だって多分・・・そうなったら、ちゃんと信じてあげられると思うな」
かすみは、そうであると疑わない風に、目を細めて葵を見つめた。
「あ、あたしは別に・・・逆に、あたしの方が浮気しちゃうかもね。
それはあたしじゃなくても、かすみにだって言えるかもよ?」
「あたしはしないよう」
怒るという風には程遠い声で葵に返すが、葵は鼻先で跳ね返した。
「どうだか〜」
「しないもんしないもんっ」
「あいつはそう思ってるかどうか。
きっと、かすみが浮気でもしないかって心配なんじゃないの?」
「葵の意地悪ぅ」
「いや、これは大事な事だよ」
冗談めいて言ってはいるが、葵が心底思う事でもあった。
葵にしてみれば、そうはなって欲しくないという思いの裏返しだったのかもしれない。
「あたしは、ほんとに二人を応援してるんだよ。
今まで遅かったくらいだしね。だから、心配なんだ」
「もう・・・葵!」
「まあまあ。とにかく頑張りなよ。卒業まで後一年だし。応援してるってのは本当だからね」
葵は、空を見上げた。
どんなに離れていても、結局はこの空の下に居る事には変わらない。それに、絶望的な距離に居る訳でもない。
「で、最近どうだって? あいつさ」
「うん。元気でやってるみたい。向こうの学校にもちゃんと慣れたって。
それでも、やっぱり青葉台の方がいいとか言ってるけどね」
「なんだよ。相変わらずだなあ・・・」
「・・・・・」
二人は、またしばらく無言だった。
今度の沈黙は、さっきのとは違う。
後ろから、よう! と声をかけられる準備でもしているかのような沈黙だ。
どれだけそのまま歩いただろう。しばらくして、二人は大きな十字路に差しかかった。
かすみは左。葵はそのまま真っ直ぐ。二人別々の道へ行く分かれ道だ。
「じゃあね」
「うん。またね」
いつもの挨拶。
信号が変わり、葵が渡っていく。
かすみはそれをずっと見送っていた。
やがて葵の背中が小さくなった頃に、ふうとため息をついてから、かすみは歩き出した。
葵と歩いている時とは比べ物にならないくらいゆっくりと。
もともとのペースがそうだった。葵は気遣ってなるべく速度を合わせるようにしているが、すでにここには居ない少年も、それは同様だった。
ふとそんな事を思い出して、もう一つため息。
かすみにとって、自分は遠距離恋愛をしているんだという実感が、今まで無い訳ではなかった。
実感が薄いのは、恋愛という時間を一緒に噛み締めるべき相手が、気持ちを伝え合ったその次の日に居なくなってしまったからだ。
もしかしたら、あの時の事は夢だったのかもしれない。そう思う時が何度もあった。その度に、かすみは机の引出しから手紙を取り出して、何度も読み返していた。
逢いたい。
手紙の中の、こんなたった一言を何度も繰り返す。
この一言を書いた時に、どんな顔をしていたんだろう。どんな気持ちで書いたんだろう。
そんな想像するのが、かすみは大好きだった。
電話でも返事の手紙でも、その事だけは聞いたりもしないし、書かない。
かすみだけの楽しみであったし、約束通りに戻ってきた時にこそ聞こうと思っていたからだ。それまでは、聞いても答えてくれないだろうというのが、本当のところなのかもしれない。
やがて、団地の敷地内に入ると、かすみの足が自然に速くなっていった。
家に近づけば近づくほど速くなり、ついにはほとんど駆け足になっていた。
階段の入り口へ着く頃には、すでに軽く肩が上下していた。
はあはあと弾んだ息を一回ごくりと飲みこんでから、かすみは自分の家のポストに手をかけた。
ダイヤル鍵を回す手間さえもどかしい。
ポストの中には、郵便物が何通か入っていた。
きゅっと口の端を結んで、郵便の束ゆっくりと取り出してから、一度だけ深呼吸をした。
日課となっても、この瞬間だけは変わらない。むしろ日を追うごとに高揚感が増していく。
ゆっくりと郵便物をチェックする。
一枚目。銀行からの通知だ。
二枚目。どこかの洋服屋の広告案内の葉書だ。
三枚目。分厚い封筒。これもどこかの広告だ。
四枚目。封筒。母親宛の封筒だ。片方の手にはもうあと二通しか残っていない。
五枚目。なんかの通知らしい封筒。これも違う。
最後に、その封筒を右手に移しかえる前に、また一つ大きく息を吸って、吸うよりも短く吐いてから、さっと五枚目の封筒を右手に移し変えた。
感触からして封筒なのは間違い無かったせいで期待はしていたのだが、期待は一瞬にして消え去った。
部屋番号が隣の郵便物であった。
「なあんだ・・・お隣のかあ・・・」
がっくり肩を落として、身体中の空気が抜けるようなため息をついてから、間違い郵便を隣のポストに入れる。
その瞬間かすみの背後から、
「かすみっ。背中に虫がくっついてるぞ!」
「えっ?! やっ!やっ! 取って取って取って取ってええ」
かすみは慌てて身を縮込ませた。
「ば、ばか。こんな真冬に虫が居るか。なんて声出すんだ」
慌てた声が返ってくる。
「だって・・・・・・・・・・」
かすみが言えたのは、そこまでだった。
誰だろう? と思わないのはどうしてだろう? 自分じゃない自分はもう知っている。自分よりも早くわかってるなんてずるい。でも、ほんとに・・・ほんとに?
かすみは振り向いた。
「・・・・よっ」
少年が、小さく手をあげた。当たり前のように。
「・・・・・・」
「ちょっとこっちの方に用があってさ。
本来なら親父が来る筈だったんだけど、俺が無理言って、変わりに来たって訳だ。
うちの学校、今日は休みだからな」
そう言って、苦笑して頬を掻いた。
かすみにも、言いたい事は沢山あった。手紙や電話じゃ言えない事は、いくらでもあった。言ったらバカにされそうな事から、どうしても聞いて欲しい事とか、山ほどあった。今度会えたらまとめて聞こうと思った事だ。それが全部消えていた。
「…君」
「ん? なんだ」
「ほんとだ・・・」
「なにが?」
「ほんとだ・・・・」
「だから何がだよ」
少年への答えの代わりは、涙だった。
「な、泣くなって」
「だって。だって・・・・」
もう言えなくてもいい。今目の前に居てくれるだけで。
「と、とりあえず、俺が泣かしたみたいだろ。泣き止め。即座に」
「無理だよう・・」
笑えば笑うほど涙が出てくる。不思議な感覚だった。
「ったくしょうがないな。ほれ」
少年はハンカチを差し出した。一つの封筒と一緒に。
「え・・・?」
「普通こんな事しないぞ。これだって、こっそりポストに入れておくつもりだったんだからな」
「・・・・・」
「ちとおばさんに挨拶していきたいんだ。いいか?」
「・・・・うんっ」
かすみは、大きくうなずいた。
逢いたい。
言葉が形になって目の前に居る事が嬉しくてたまらなかった。
「よう、かすみ。おはよう!」
「あ、葵。おはよう」
十字路が別れる為の場所なら、出会うための場所でもあった。
「ねえねえ。葵」
出会うなり、かすみはすぐにそう切り出す。
「ん? なんだ?」
「・・・あのね・・・ふふ」
「なんだよ。気持ち悪いなあ」
「あのね・・・昨日ね・・・」
「昨日?」
「くすくす」
あからさまにいつもと違うかすみの態度だったが、葵にとっては、まるで馴染みの無い態度という訳ではなかった。
「ははあん。わかった。来たんだな。昨日」
「ええっ!?」
かすみの想像以上の驚きに、葵は目を丸くした。
かすみにしてみれば、驚かすつもりだった事をそのまま返された形になって、葵以上に目を丸くした。
「知ってるの?」
「え? あ・・・・来たんだろ? 手紙・・」
「へ?」
「手紙が来た次の日はいっつもそうだろ」
「あ、ああ・・・・うん。そういう事か」
かすみは、胸を撫で下ろす。
「それもそうなんだけど。もっと凄い事があったの」
「なんだ・・?」
くすくすと笑ってから、
「昨日ね。・・・・来たの」
「手紙だろ?」
「そうじゃなくって。本人が直接来たの」
もったいぶった効果が出ないのに不満だったのか、眉が下がる。
同時に、昨日の鼓動の高鳴りがかすみの中に蘇る。
「えっ!? 本人って・・・あいつ?」
「そう」
「こっちに来たの?」
「うん」
「・・・・・」
葵は、目を丸くしていた。
「昨日の夜帰っちゃったけどね」
「そうかあ。あいつがね・・・ふーん」
やるもんだ。昨日のは撤回。
「それにしても水臭いよなあ。あたしにも教えてくれりゃ良かったのに」
そう言うと、かすみの頬が、ポンッと赤くなった。その表情を見ていた葵が、ぽりぽりと頭を掻いた。
「あ、あのね・・・」
かすみは、人差し指で、落ちつかなげにさするように下唇をさすっていた。
葵は決して察しが悪い訳ではないし、伊達に近くに居る訳でもない。
そんな彼女だからこそ、考えればすぐにわかる事であった。
「良かったじゃん。熱いよ。ひゅーひゅー」
「もうっ。葵ぃ!」
頬だけだった赤みが、顔中に広がって行く。
「なあなあ、後で詳しく教えてくれよ」
「ばかばかばか。葵のばかあ」
「ま、でもいいじゃん。見てるこっちがイライラするくらいだったしね」
そう言って、かすみの背中をぱしんと叩いた。
「あ、それでね。今度の休みに君子ちゃんとまた来るんだって」
「へえ」
「今度は、みんなで一緒に遊ぼうよ。ね」
「ああ、はいはい。二人の邪魔しないように、あたしは君子ちゃんとでも遊んでるとしますかね」
葵は駆け出した。
「もう、どうしてそんなに意地悪言うの!」
かすみは声高に言って、葵を追いかけた。
これからたった二日だけ、こんな事が短い日課になるのも知らずに。
今回、ぎりぎりいっぱいでTLSのがこんな小さすぎる話しになってしまいました。思いっきり後悔してます。
他にも出そうと思ったタイトルはいくらでもあるんですが・・・なんとか面目を保てたというのが良いのか悪いのか。
話しは、かすみと主人公のその後って事でやったんですが、もっと全然長い話にする予定だったんですけどね・・・頭がオーバーヒート状態で、しかも時間がなくて書けませんでした。不甲斐なさ炸裂。
しかし、今後HPなどでいろいろ作品を書いていきたいと思います(^^)
| 総合評価 | 投稿数: 49 pts. / 平均: 4.3(良い方だと思う。) |
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