「じゃ、行くよ。いいか」
カメラのファインダー越しに見える詩織に声をかけた。
この制服姿を見るのは、もう再び無いかもしれない。
手に持っている卒業証書と、胸につけた卒業生の証が嘘のように思える。
ただ、目のあたりに残る、うっすらとした赤みが、あの樹の下であった事を実感させてくれた。
ファインダー越しからでも分かる。詩織がこっちをずっと見ているのが。
向こうから俺の目が見えているのかもしれない。そんな風にさえ思える。
ふと、あの言葉‥‥いまだに信じられない気持ちが、心のどこかに湧きだした。
「はいチーズ」
小さな迷いを払うように、シャッターに置いた指に小さく力を入れると、シャッターが切れる音だけが小さく鳴った。
一瞬だけ時間が止まったような気がする。
この微笑みが向けられている時間なら、止まってもいいかもしれない。
「はい、おっけ」
カメラを外して詩織を見ると、ファインダー越しで見ていた時よりもずっと柔らかそうな笑顔を浮かべていた。
「じゃ、今度はわたしが撮ってあげる」
「頼むよ」
俺が詩織にカメラを渡そうとしたとき。
「ほら、一応記念写真なんだから、ホックしめてね」
脇に卒業証書の筒をはさんで、両手で俺の衿のホックに手を延ばしてきた。
あっ、と思う間もなくホックが止められた。
「はい、これでいいわ」
詩織は、弾むようにそう言ってから照れくさくなったのか、頬を見るも明らかに赤らめて、それでもニッコリと微笑んだ。
ほとんど締めたことのないホック。しかし、締められても息苦しさは感じなかった。
この息苦しさなんか、昨日までの息苦しさと比べたら、何ほども物じゃない。
それよりも、照れくさいのはこっちの方だ。
「じゃ、…のうちの前に行きましょ」
「いや、別にここでいいって」
「だめ。うちの前で撮ったのなんて、意味がないもの」
「どこで撮ったって同じだよ」
「だめ‥‥‥ね、お願い」
揺るがない笑顔とは、こんな笑顔の事を言うのかもしれない。
そんな笑顔だった。
なにを言っても聞きそうもないな。
「そこまで言うなら、別にいいよ。俺もこだわってる訳じゃないから」
「ごめんね。わがまま言っちゃって」
「いや、別に‥‥‥
それに、わがまま言われるっていうのも、なんかこう‥‥‥くすぐったいかな」
昨日までは、夢のような事だったかもしれない。しかし、今は現実だ。
ちょっとだけ照れくさくなって、鼻の頭を小さく掻いた。
「そうなんだ‥‥でも、わがままはあまり言わないからね」
悪戯っぽくクスクスと笑った。
俺も釣られて笑った。昨日までの笑い合いとは、どこか違う。
心の動きがお互い手にとるような‥‥そんな風な心地よさがある。
「でも、今まで詩織のわがままなんか聞いた事ないよ」
「じゃ、言っていいの?」
悪戯っぽい笑顔だ。今までは、本心がつかめない笑みだったが、これからは違う。
どんなつもりで言っているのか、どんな気持ちで微笑んでいるのか、
わかるような気がする。
「あんまし言われても困るけどね」
「ふふっ、冗談よ。それじゃ、行きましょう」
俺達は、俺の家の前までの短い間、どちらからともなく、そっと手を延ばして繋ぎ合った。
「それじゃ、いい?」
「いいよ」
とは言うものの、こうやって撮られるのは恥ずかしい。
「いくわよ」
俺は、ファインダー越しにどうやって見えているのだろう。
ちゃんと笑えているだろうか。
詩織の指に小さく力が入ったのがわかった。
シャッターを切る音が、気のせいか大きく感じる。
「なんか照れくさかったよ」
「そうでしょ。そんな感じしたもの。でも‥‥‥」
「でも‥‥なに?」
「う、ううん、なんでも‥‥ないっ」
最後だけ、楽しそうに弾むように言った。
「なんだ‥‥‥隠し事はなしにしよう」
「隠し事じゃないもん」
どこか子供っぽく言ってから、可笑しそうに笑っている。
すると、唯一、女性では、詩織よりも長年聞きなれた声がした。
「あら、二人ともこんな所でなにやってるの?」
詩織は、さっきうちに来たばかりだから、母さんには会っていた。
軽く頭を下げている。
「あ、おばさま。お願いがあるんですが」
「なにかしら?」
待っていたかのように、ニコニコしながら、母さんが答えた。
「写真‥‥お願いできませんか?」
「あら、いいわよ。二人一緒に撮ればいいのね?」
なんだか、待ちかまえていたとしか思えない言葉だった。
詩織からカメラを受け取った母さんは、なぜだか本当に嬉しそうだ。
「すいません。お願いして‥‥‥」
「いいのよ。それより、はやく二人とも並んで」
「なんだよ。そんなに張り切らなくてもいいのに‥‥」
ただでさえ照れくさいのに、しきられると余計照れくさい。
「ほらほら、無駄口はあとで聞くから、並んで」
そうすると、詩織が俺の横にスッと並んできた。
「ふふっ」
やはり詩織も照れくさいのか、頬が赤い。
たぶん俺の頬も赤いのだろう。
さっきから顔が熱い。
「もっと近づきなさいな」
カメラを構えながら、片方の手を、寄るようにと動かしている。
俺達はお互いをチラリと見て、少し照れを含んだの苦笑を浮かべながら
すっと近づいた。
俺が詩織に半分ほど後ろに重なるほどに。
「いい? いくわよ。はい、チーズ」
すぐにシャッター音が聞こえてきた。
こうして俺達は、高校最後の制服姿を、フィルムの中へ仕舞い込んだ。
もう戻らない時間と一緒に─────
| 総合評価 | 投稿数: 279 pts. / 平均: 4.7(良い方だと思う。) |
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